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優しい棘




普段より手間取ってしまったのは多分俺が動揺していたせいだ。鉄パイプやらナイフやら危険なものを振りまわされたり振りまわしたせいで何か所か怪我をして、しかもさっきの怪我まで傷が開いて血が滲んでいる。痛い。

でも勿論あいつがいるあの部屋には行けなくて、怖くて、だから手当は自分でやるしかなかった。その位ひとりで出来る。今あいつの顔を見て、そこにありありと俺が残した傷跡をみてしまうよりは、そっちのほうがずっといい。――そう思ったのに生徒会室には包帯ひとつない。笑える。他の連中は勝手にそれぞれ保健室やらそれぞれの手当てをしてくれるやつらのところへいったらしく、他に治療道具を持っていそうなやつらは誰も居なかった。いっそこのままにしておこうかと思ったが、血まみれのシャツのままだとさすがに通報されてしまうかもしれないので諦める。

―――包帯を貰いにいくだけだ。
自分に言い聞かせて、悲鳴を上げるこころにふたをして無理に足をあいつのいる部屋へ向ける。怖い。どんなに無茶な喧嘩を挑むときもこんなことはなかったくせに、今は情けないくらいに手指が震えていた。怖い。ひたすらに、怖い。

ほんとうはあの熱になにより縋っているのに、ほんとうはあいつのやさしさが無ければ息だって上手く出来ないのに、自分からそれを投げ捨てたのだ。…いくらあいつがやさしくても、いい加減、幻滅したかも。なんてやつだと、思ったかも。嫌いに、…なったかもしれない。ぐらりと眩暈がした。

あいつに。あいつに嫌われたら、俺は生きていけるだろうか。

「――やっぱりさ、風紀委員長なんかより保健委員長のほうが似合うよ」

なけなしの勇気を振り絞って、いざあの教室に入ろうと思って廊下を曲がったら、灯りの漏れる教室から女の声がした。あはは、と続いたのは、いつも傍で聞いていた、あいつの笑い声。聞き間違えるはずもない。なにそれ。どういうこと。なんで。聞きたくてその相手が今目の前にいないことに、今更ながらにひどくショックを受ける。あの手を振り払ったのは、俺なのに。

「はい、おしまい。大会頑張ってね」
「頑張る!…あ、なんだか裏門のほうが騒がしかったから帰るとき気をつけてね、いいんちょ」
「俺一応風紀委員長なんだから、ふつう見に行ったら?とか言わないかなあ…」
「駄目だよ、危ないってば!会長がなんとかしてくれるって!」

ばいばーい、いつもありがとね。
手を振りながら教室から出てきたのは、確か運動部の生徒だったはずの可愛い少女だった。素直で。ありがとうなんて、俺はあいつに言ったことがないのに。いつもありがとう、なんて。本当は伝えなきゃいけなかったのに。…きっとあいつは今、かなしい顔なんて、してないだろう。嬉しそうな顔をしているはずだ。自分のしていることを認められることは、うれしい。怪我をしたひとが笑ってこの部屋を出てってくれるなら、もっとうれしい。いつだったか、そう、保健委員長のほうが向いてるんじゃねえの、といったときのこと。あいつは俺の腕に包帯を巻きながらそんなことをいっていた。…いまさらに思い出す。どうせいつ思い出したって、俺は結局ありがとうなんて言えないままだったろうけど。

「――あ」

言い知れない焦燥で立ちつくしていたら、扉の向こうのあいつと目が合った。そこに浮かんでいた口元の笑みが消える。はっきりとそれが分かってしまったことに対する言い様のない悲しさとそれから身を焦がす焦りとで息が出来なくて、俺は立ち竦んだまま。

「もう、来てくれないかと思ったよ」

再び口元に笑みをたたえたあいつが、おいで、と俺を手招いた。残酷だ。さっきまであんなに笑っていたくせに、いまはとても苦しそうな顔をしているだけ。そんな苦しい笑顔をするくらいだったら、いっそ辛いと態度で示してくれたほうが、ずっとよかった。

「―――なんで」

何でほかのヤツにまでやさしくするんだ。なんでさっきの女には笑って、俺には悲しい顔をするんだ。なんで。なんで俺に、やさしくするんだ。

怪我をしていたから?それだけ?あんなにやさしく俺に触れたのも、それはただ、怪我人を放っておけなかったから?浮かび上がっては消えていく疑問が、容赦なく俺のこころをずたずたにする。触れたい。触れられたい。笑ってほしい。いつもみたいに。何一つ言葉にできないばかで不器用な俺は、これ以上思ってもいない言葉であいつを傷つけないように、黙って唇を噛んだ。

―――あのやさしさが、誰にでも与えられるものだとしたら。

それならせめて同情がよかった。憎悪でもよかった。いっそ軽蔑でも。…特別だったらなんだってよかった。息が出来ない。苦しい。くるしい。

「酷い怪我だ。…ほら、入って」
「――包帯、よこせ」
「包帯?…、自分でするの?」
「―――」

教室のまえで立ちつくしたまま、なにもいえないでいたら、そう、と寂しげに笑って、あいつはそれ以上何も言わずに身を翻した。息苦しさで咽喉が焼ける。中学のときから見慣れた救急箱のまえにしゃがんだ背中に駆け寄って抱きついてしまいたい衝動に駆られ、それでも馬鹿な俺はそんなことを出来るはずもなく立ちつくすだけ。

ほどなくして再び戻ってきたあいつは、ふいにまた苦しそうな笑みを浮かべて俺のまえに包帯を差し出した。とっさに出した掌のうえで、ぽんと包帯が跳ねる。

なんで。
なんで触ってくれないんだ。

指先すら触れあわないで、あいつの手は再び身体の横へとぶら下がった。触れては、くれなかった。すこしも。あの熱を、やさしく、暖かく、俺を弱く脆くさせる熱を、分け与えてはくれなかった。

…俺がその手を振り払ったから?もう俺に触れては、くれないのだろうか。あんなふうにやさしく、俺に触れてはくれないのだろうか。いやだ。

それでこいつが他の奴に手を差し伸べるのも、それで俺じゃないだれかがその手を掴むのも、やだ。ぜったいに、いやだ。子供みたいにそんなことを思いながら、俺はどうしていいかわからないままに手の中のまっ白い包帯を握りしめる。

「―――…」

言葉が、ひとつも、出てこない。
言わなきゃいけない言葉は分かっている。それなのになんで。何でこんな時にまで素直になれないんだ。なんで。なんで。

「いつでもまたおいで」

笑っていつもどおりに、あいつはそんなことを言った。もう耐えきれなくて、俺は乱暴に扉を閉める。息が出来ない。どこか、どこに向かっても待っているのはこの苦しみだって分かっているけれど俺は走る。けれどすぐに足が止まった。進めば進むほど、もうとっくに千切れてしまったかもしれないあいつとの間にある関係が遠のいてしまう気がしたから。だから三歩と進まないで、しゃがみこんだ。

――なんで。くるしい。ぼろぼろ涙が溢れる。これまでどんなに殴られてもどんな怪我をしても治療が痛くても、泣いたりなんてしなかったのに。母親に見捨てられた時だって、なにもわからないでただ帰りを待っていただけだったのに。

ただ、あいつに見捨てられるのだけは、死ぬほど怖かった。

「待って、消毒液も――!」

背後で勢いよく扉が開く音がする。身体を竦ませてとっさに顔を上げると、一瞬彷徨ったあいつの目と歪んだ視界のなかで目が合った。しゃがみこんだ俺を見て、おろおろと傍に寄ってくる。俺が嗚咽を漏らしていることに気付くとますます狼狽したようだった。

「どうした?大丈夫?」

けれどあいつの手が俺に触れることは、なかった。躊躇ったように俺の制服の生地を引っ掻いた指先が、そのまま離れていく。傷口に触れるときと同じように、痛みひとつ残さないで。

「…くるしい」

辛うじてそれだけ吐き出せば、あいつが慌てた気配がした。救急箱とってくる、と言ってきゅっと床を蹴って向きを変える。教室に戻るつもりだ、ということは、苦しさに霞む頭でも十二分に理解できた。

なのに。

これ以上、こころの距離が離れてしまうのが怖くて。俺から腕を振り払って優しさを拒むようなことを言ったくせに、もうこれ以上この息苦しさに苛まれることに耐えきれなくて、繋ぎとめておきたくて、俺は咄嗟に腕を伸ばしてあいつのスラックスの裾を掴んでいた。足を止めたあいつが俺の傍に膝をつくのが分かる。その拍子に掴んだはずの裾は、すぐに俺の手から離れてしまった。…再び伸ばした俺の手はまた、空を切る。

「…どこか痛くした?」

決して触れてはくれないくせにどこまでもやさしくあいつは俺に声をかけた。その残酷な優しさが容赦なく俺のこころを穿つ。顔を上げると存外にちかくにあいつの困った顔が見えた。

だれにでも、やさしい、のだろうか。俺はこいつの、特別じゃないんだろうか。そう考えてしまうと、もう駄目だった。なにひとつ言葉にして伝えられないくせに…、そういや俺はこいつにありがとうと言ったことなんてないはずなのに、俺のこころは貪欲にそんなことを求める。これ以上ないくらいにたくさんもらっているくせに、まだ足りないと悲鳴を上げている。なんて浅ましいんだろう。なんて女々しいんだろう。思ってもひとつも言葉に出来ない俺は、とても滑稽だ。だからこいつを傷つけるようなことを言う。する。ばかだ。

「…くるしい、」

その首に縋る。遮二無二に抱きつく。息が出来ない。胸が痛い。酸素が欲しくて触れたくて熱を与えてほしくて、俺は何か言いかけたあいつにむりやりにキスをした。目を見開いたその表情が驚愕からほかのなにかに染まるのが怖くて目を閉じる。ああ、と触れたことのないあたたかな熱に溺れながら、俺は痛みすら生むだろうほどの力で縋りついたその背中にますます力を込めた。特別がほしい。一番がほしい。それだけでいい。お前だけで。なにひとつ言葉にできない。涙がぼろりと鼻筋を伝って零れた。

背中に回った腕のやさしさが、痛い。











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