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優しい棘



「またそんな怪我して。喧嘩もいいけど、余所とモメるのは大概にしなよ?」
「うっせえ」

やさしい、手だ。いつもそう思う。他校との乱闘のときにとっさに鉄パイプを受け流したせいでデカイ青あざが出来た俺の二の腕を持ち上げる手指は、短く切られた爪もあいまって怪我に触れているってのに痛みひとつ齎さない。風にたなびくカーテンは先ほどまで俺が身を置いていた殺伐した場所とはまるで違ってあたりまえの高校生活を映し出していて少し笑えた。生徒会長なんてものに推されてなし崩しになってしまってからっていうもの、来る日も来る日もちょっかい出してくる隣町の不良の巣窟みてえなところからここを守るので精いっぱいだった。

「校内にまで入りこんできたんなら風紀の仕事だって、いつも言ってるだろ」
「いいからさっさと湿布貼れ」

弱いくせによくもそんなことが言えたもんだ。俺の怪我に体温で温めた湿布を貼りながら、お人良しの風紀委員長さまはそんなことをいう。こいつは俺とは違ってその日向みてえな優しさとそれに伴う人望で選ばれた人間だった。つまりは俺のように、喧嘩の先頭に立って引っ張っていくなんてことは求められていない。周りはそれを卑怯だとか甘いとか言うけど、かくいう俺だってこいつに喧嘩をさせたくないひとりだった。

こいつは俺にとって怪我すんなだの喧嘩すんなだのきれいごとを再三三四噛んで言い含めるように辛抱強く繰り返す、母親みたいなもんだった。きれいごとと何度鼻で笑っても、こいつはそれをきれいごとと思っちゃいないから笑える。こいつは俺を、見捨てなかった。中学時代から生傷が絶えないせいで浮きがちだった俺の傍に寄ってきたのはこいつだけだったし、こうしていつも手当をしてくれたのもこいつだけだった。だから俺にとってこいつは親みたいなもんなわけである。

親ってのは本来、こいつみたいに、どんなに文句を言っても決して見捨てることのない存在のはずだ。だけど俺には小さいころ母親が余所に男を作って出ていったせいで、母親の記憶はほとんどない。与えられて然るべき優しさってのは、ほとんどこいつからのそれでできていた。だから俺は、ぐずぐずとまるで腐るようにしてこいつにひどく依存をしている、んだと思う。

「…心配してるんだ。いつも無茶をするから」

一度も染めたことのなさそうなさらさらの黒髪が、窓から吹き込んだ風に靡く。放課後の時間帯は時折遠くから部活動の声が聞こえてくるだけでひどく穏やかだった。喧嘩に巻き込まれるのは俺を中心とした一部の生徒だけっていうのもあって、表向きはそれなりにいい学校、ってことになっているのもうなづける。

穏やかな風がもう一度吹き、消毒液の瓶をこいつの私物である救急箱から取り出すために屈んだ髪を先ほどよりも強くかき混ぜた。そのせいかこいつのシャンプーのにおいがする。さわやかな香りだ。ひどくおちつく。そんなことを考えてしまう自分に情けなくなりながら、俺はふいに窓の向こうを見た。空が青い。

脱色したり色を入れたりとさんざん酷使している俺の、目に刺さるような金色の髪に指が触れた。そのまま何度か撫でてから、髪の間に指を入れて梳る。傍若無人で傲慢で、そんでもって喧嘩に強い俺は自分でいうのもなんだがこの学校の生徒からすれば頼れる生徒会長であるし、畏怖の対象でもあると思う。他校からしたら第一の障害に違いなかった。そんな俺の頭を撫でるのなんて、どこを探してもこいつくらいだと思う。俺も、こいつに触れられるぶんにはそれを少しも厭だとは思わなかった。自分に反吐が出る。

「こっち消毒するよ。いたくない?」
「…痛くねえよ」

捲り上げた制服の下、横一文字に破けたシャツのしたの傷口に、慎重な手つきで消毒液が塗りこめられる。クソ痛ェ。唇を噛んでこらえながら、真剣そのものの顔をした目の前の男を見てどきりとした。…ふいに見せるこういうマジな表情に、俺は弱い。壊れものでも扱うみたいにして触れるやさしい指にだけは、きっといつまでも慣れることはないんだろう。

お前きっと保健委員会のほうが向いてる、といえば、お前が風紀の仕事を取るせいだ、と怒られたっけ。なんて思いながら、生まれた沈黙を耐えた。肌を這う指を意識しないようにするために再び窓の外に視線をやる。ひとつも言葉に出来やしないし、いつもむしろ真逆の態度をとっているけれど――、俺はこいつのことが、ほんとうはすごくすごく、好きで。もう何年もの付き合いになれば、それを抱え込んでおくのだっていい加減に苦しくて。
だから意識しないようにするので精いっぱいだった。やさしいけれど的確な手つきでほかの細かい傷にも消毒液を塗っていく黒い頭をちらりと見ると、短い髪からはみ出た耳の先が赤い。ふいに息が詰まる。

こいつは、とてもやさしい。俺を際限なしに受けとめてくれるせいで、俺はどこまでもずるずると毒されていくのだ。どろどろ優しさのなかに溺れていく。俺から触れられないかわりに俺にやさしく触れる手が、さらに俺を沈めていく。

ほんとうは、いつも怖かった。その手がいつか離れていくのが、恐ろしくてたまらなかった。どれだけ恐れてもきっと、それでも俺は、その手を引きとめられないのだから。

「会長!さっきの連中が、裏門のトコに!」

続いていた微妙な沈黙は、俺たちのいる風紀委員会の教室に飛び込んできた威勢のいい一年によって破かれた。顔を跳ね上げた表情が不安そうに歪む。じくりと胸が痛んだ。けれど俺は、ひとつ息を吐き出して息を切らせた後輩に片手を上げて応じている。

「――わーった。今いく」
「待って。薬塗って包帯巻かないと、このまま動いたら傷がひどくなる」
「いい、行く」

律儀なことにそれでもこいつは立ち上がりかけた俺の腕を掴んだ。相変わらず、とてもやさしい、手だ。

俺にこの手を掴むことは許されない。汚してはいけない。

「じゃあ包帯だけでも巻かせて」

この手を。俺が、汚しては、ならない。

触れたくてたまらない。縋りたくてたまらない。もっと強く深く触れてほしい。普段の俺なら頭を抱えてしまうような女々しいことふつふつと考えながら、俺はひどくその手のやさしさに怯えた。

俺をどうしようもなく迷わせて弱くする熱だ。俺を塗り替え、作り変えてしまえるやさしい熱だ。そう考えたのとほとんど同時に、俺はその熱をとっさに振り払っていた。はっとする。

触れることができないかわりに、俺がこの熱を拒んだことは、最初の一度以来…、中学以来、一度もなかった。びくりと身体をすくませてひどく傷ついた顔をしたあいつを見て、俺は息が出来なくなる。…今俺は何をした?あの優しい手を振り払い、はっきりと拒絶しなかったか。

怖い。この手が俺に触れなくなることが、こいつが俺を嫌いになることが、死ぬほど怖い。考えただけで頭のなかが真っ白になった。その唇が動く。聴きたくなかった。俺を拒む言葉も悲しみも幻滅もなにも、見たくないし知りたくない。怖い。

「――お節介なんだよ」

それでとっさに自分の吐き出した言葉に、一瞬で血の気が引いた。背中にばちんと電流が流れたみたいな感じがする。千切れてしまったような気がした。こいつと繋がっていた何かが。いとも容易く、俺の手で。息が出来ない。もう顔を見るのだって怖くて、俺はそのままあいつに背中を向けて扉のほうに足音荒く寄っていくことしか出来なかった。

「…か、会長」
「行くぞ!」

まだあいつの傍でおろおろとしていたらしい後輩を呼び付けて、荒々しくドアを開けて飛び出す。…なにも頭では理解していないくせに恐怖だけは本能的にこころのなかにあって、俺はあいつを、振り返ることが出来なかった。

ぐわんぐわんと耳鳴りがする。何をした?…なんて、言った?口のなかが、いやに乾いていた。





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