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「…食べていいの?」

男は、スグリが花冠をひとつ作り終えてしまってすぐに戻ってきた。木で出来た盆に乗せられていたのはなにかの肉が入ったスープとパンが数切れで、それがスグリのすぐそばにある台に乗せられる。スグリのムラでは稲を作っていたから食事は雑穀や米が多かったが、山の上ともなるとそうはいかないらしい。行商人から買ったのをクサギの家に分けてもらって口にしたことのあるパンが、このムラの主食のようだった。

木で作られたスプーンを手に躊躇った様子を見せるスグリに、男はかるく頷いてくれた。恐る恐るそのスープを口に運ぶと、姉のカンナの作るものとは全く違う味付けだったが、空いた腹に沁みてとても美味い。思わず夢中になってパンとスープを食べているのを、男は寝台の端に腰掛けて見るでもなしに見つめていた。

それからおもむろに、投げ出された花冠を手に取る。目を丸くしてそれを眇め見ている男に、スープを呑みほして一息ついたスグリが笑いかけた。それから腕を伸ばして、かれの腕にそれを通してやる。このムラでは珍しいのか、腕に嵌まったそれを見て男は素直に驚いた顔をしていた。パンを頬張りながら、スグリはそれを眺めている。

…思えばスグリは、この男のなにもかも、名すらしらない。こんなふうに親切にしてくれるのに、だ。きっと恐らくは暫くここに留め置かれるだろうから、言葉の通じない地で、彼の名すら知らぬのは問題であると思う。脳と腹に栄養が廻ったせいか、そんなことを考える余裕ができた。

「…あの、さ」

つい、と花冠に見とれるその手を引けば、かれの淡い栗色の瞳がスグリを向いた。目を細めて、かるく首を傾げる。敵意のひとつもないそれに、淡く浮かんだ不安がなりを潜めるのがわかった。

「…スグリ」

自分の胸を指差して、スグリはゆっくりと自分の名を紡いだ。それが何を意図するかに気付いた男が、顔をスグリに寄せて耳をそばだてる。

「ス、グ、リ」

もう一度、もっとゆっくり名前を言うと、かれの唇が擽ったそうに戦慄いた。そこからゆっくりと、スグリの知る言葉が漏れ出てくる。

「スグリ」
「そう。スグリ」

かれの指が、スグリの胸のまんなかを差す。そうしてもう一度繰り返した。スグリ。その響きに、こころがひどく安堵をするのが分かる。もう一歩、かれにこころが近付いたような、そんな気がした。それは男も同じようで、スグリ、と確かめるように名を呼んで、その表情を和らげている。

それから何かを言って、今度はかれが自分の胸を差した。スグリは軽く頷いて、今度はかれの言葉に注意深く耳を傾ける。

「シルヴァ」
「…シル…バ?」

聞き慣れない響きの言葉に、思わず聞き返す声が疑問形になった。もっと顔を近づけて、前髪が触れ合うような近さで、もう一度かれが繰り返す。

「シ、ル、ヴァ」
「…シルヴァ!」

かれの名前をうまく紡いだスグリに、シルヴァは目を細めて笑った。シルヴァ。かれが何度もスグリの名を繰り返した理由がわかるような気がする。名前を知っただけで、相手のことがひどく近くに感じられた。

「…スグリ」

スグリの名を呼び、シルヴァが立ち上がる。手を延べられて、スグリはそれを取ってかれに続いた。ぐらりと身体が傾ぐのを、シルヴァの手に縋って耐える。どれだけの間、眠っていたのだろう。身体はまだ怠さに満ちている。

「ま、待って!どこに行くの」

かれはスグリが立ちくらみをやり過ごしたのを確認して、部屋の外へ向かって歩き出した。その手に引かれるままに連れ出され、スグリは慌てて呼びかけた。部屋のそとには長い廊下と、そして同じような部屋がいくつか。そこを真っ直ぐ進んでいくシルヴァの背中から視線をそちらに移せば、竈がある部屋や狩りの道具が並べてある部屋だと知れた。廊下を抜けると、この家のそとに出るらしい。そとはまだ日が高い刻限だと知れた。玄関には熱で朦朧とした記憶のなかで見たような気がする立派なイノシシの毛皮がかかっている。

「シルヴァ?」

かれに声をかけると、困惑げなスグリに気付いたか足を止めてスグリを振り向いてくれる。身を屈めるようにしてスグリに視線を合わせた。かれのてのひらが少しためらうように空を掻き、それからぽん、とスグリの肩に乗る。

「…あ、うん」

玄関に立ち、向かって右の部屋を差す。そこはどうやらこの家の台所に当たるらしい。その次はその向かい。窓のない薄暗い部屋には、壺や樽がいくつかあった。食糧庫だろう。

「もしかして、この家のこと…?」

ひとりごとのようにぼそりと呟いて、スグリはゆっくりと来た道を逆戻りするシルヴァに続いた。風呂にトイレにどうやら居間であるらしい大きな部屋、それから狩りの道具のある部屋に、先ほどの寝室。かれがひどく立派な家に住んでいることはわかったが、ほかに人気がないことにスグリはすこし驚いていた。かれの家族はいないのだろうか。

とん、とシルヴァの拳がスグリの胸の真ん中を軽く叩く。それから部屋を指差して、いいよ、とでもいうふうに、そちらのほうへスグリの肩を押した。それから今度は玄関の向こう、外を指差して、シルヴァ自身を指差す。

外にはかれと一緒に行け、ということだろうか。ためしに自分とシルヴァを指差してからそとを示せば、かれはかるく頷いた。どうせスグリには、何が待ち受けているかわからないこの集落にひとりで飛び出すつもりなど最初からない。この家に居るのはなにも心配していなかったけれど、そとは別だ。スグリの腕を乱暴に掴んで引きずりだしたあの少年や泣き叫ぶ若い女性を引っ張っていたあの男なんかがいるかもしれない。

「…シルヴァ」

それからふいに、ずっと寝ていたままなことに気付いて気恥かしくスグリはかれを呼ぶ。寝癖で跳ねた髪がさっきから頭の上のほうで揺れているのが気になっていたのだ。
かれが好きなように、というふうな素振りをみせたように、風呂のほうを指差すと、かれはひとつ笑って背中を押してくれる。頭を下げてそこに向かいながら、スグリは自分の危機感のなさにすこし驚いた。





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