main のコピー | ナノ
7



未熟児で生を享けたスグリの身体の弱さは、生まれてからずっと付き合ってきたもので、もう諦めもついていた。だけれどこういうときにそれがひどく負い目になってしまうことを、スグリはまた身を持って感じている。荒くなる呼吸と霞む視界のなか、先ほどからどちらが空でどちらが地面なのかも定かではなくなっていた。

熱と具合の悪さに朦朧としていたスグリの耳に飛び込んできたのは、女たちの悲鳴と男たちの罵声だった。こちらはスグリにも聞きとれたから、おそらくムラの男たちの声だろう。名前を呼ぶ声がする。娘だろうか、妻だろうか。異族の男たちはムラを抜けて山の集落へと戻るようだった。最後にフードの下からちらりと見えたムラは荒れ、男たちが荒縄で手足の自由を奪われている。なすすべもなく負けてしまったのは、一目瞭然だった。

男が歩き出してしばらく、スグリの鼻を擽る咽返るような花の香りに、この男と出会ったあの山あいの花畑にまで差し掛かったのだと悟る。もう少しでかれらの集落に近づくようだ。今はもう、どこかに横たえてくれるのならばそれでよかった。それが固い地面でも牢獄でも、この頭痛から逃れられるのならそれだけで。

どうしてあんなに酒を呑んでしまったのだろう、と取り返しのつかない後悔をする。無茶をして走ったのと緊張をしたの、そして抱えあげられて移動しているせいで具合の悪さは増すばかりだった。こんなにひどいのは何時振りだろうか。

山へと向かうさなかも女たちの泣き声は聞こえ続けていた。男たちが何かをいい、そして身を竦ますような殴打音が響く。そのたびにスグリの顔のすぐそばで、赤毛の男が低い声を出していた。スグリはといえばかれの首に捕まったまま、具合の悪さと頭痛をやり過ごそうと目をかたく閉じていることしか出来ない。本当は今すぐにでも意識を失ってしまったほうが楽だったけれど、これからの自分がなにひとつ分からないままに気を失ってしまうのは怖かった。

「ねえ、私たちどうなるの…?」

啜り泣きに交じって、そんな声が聞こえてくる。大丈夫だよ、泣かないで、と言いたくて、彼女らのように高く澄んだ声を持たぬスグリは黙っていることしか出来なかった。苦痛のあまり脂汗が顎を伝って滴り落ちる。

―――大丈夫か。

そんなふうな響きを持って、男の小さい声が聞こえた。そう聞こえたのは男の声が気遣わしげだったからか、それともスグリがこの男に不思議な安心感を抱いているからかは知れぬ。ただそんなふうに聞こえたそれに、スグリはふいに力を抜いてしまった。身体中を支配する熱と具合の悪さをぶちまけるように、男の背中に縋りつく。

「…もう、駄目だ、死んでしまう」

首を振って、通じぬ言葉で救いを求める。するとこころもち、男の歩みが早くなったような気配がした。山を踏みしめる男の声が不安そうに聞こえる。ゆるく首を振って、スグリは震える息を吐き出した。かれはきっと急いでくれるだろう。この男は、優しい男なのだと、すでにスグリは疑いもせず思っている。

痛みに朦朧とする頭のなかで、女たちが絶望の言葉を吐くのに気付いて顔を上げた。緩慢に瞼を持ち上げるとフードの奥で見えるのは今しがた入ってきたのだろう高い柵と門に囲まれた集落で、ああここが山の上の、かれらの住居なのだとすぐにわかる。…いまはスグリから、絶望は遠い。痛みだけが鮮明で、男の背中を握りしめたままにゆるく瞳を開け閉めする。スグリを抱えた男が、何か二言三言周囲に言ったようだった。それに声を揃えて答えた男たちと女のすすり泣く声が、それぞれ四方に散ってゆくのが分かる。

「…、あ、あの」

具合が悪いんですけれど、と言ってみたは良いけれど、男にその意図が通じるとは思えない。それでも縋るように声を絞り出すと、男がなにかをスグリに言った。そこに恐ろしさはひとかけらもなく、ただ是、という雰囲気を感じ取ることが出来る。けれど早足に歩いていく男の肩のうえでスグリには返事を返すことも出来なかった。いまにも気を失ってしまいそうだけれど、この朝の空気の冷たさは、スグリにそれを許さない。

連れてこられたのは、おそらくこの男の家だろう場所だった。フードを外されて視界が明瞭になると、ひどくひろい家であることが分かる。壁には立派なイノシシの毛皮が掛けられていた。男の足が迷うことなく進んでいく。行きついたさきは山がよく見える窓のある大きな部屋で、白く広い寝台があるのが見えた。

横になれるのなら、どこだっていい。そう思ってはいたけれど、横たわるのが柔らかな寝台であるならそれに越したことはない。男の腕がひどく丁重にスグリの身体を横たえて、その顔が不安そうにスグリの顔を覗きこむ。それを見て、それでももう目を開けておくことも出来なくてけれど瞼を閉じるのでさえ気だるく、スグリはてのひらが男の背中を滑って寝台に跳ねるのを緩慢に目で追った。

そのさきにある机の上に、ひどく鮮やかな色彩がある。遠い異国から伝わったのだろううつくしいタペストリのそばにある素焼きの花瓶には、間違いなくスグリがかれに手渡した、あの大輪の白い花が活けられていた。

「…!」

それを見た瞬間に、糸が切れたように緊張の糸が解けた。殆ど無意識のうちに目を閉じて、ぐるぐると回る視界を強制的に閉ざしてしまう。なにかを言った男になにも応じることが出来ないままに、スグリの意識は闇に閉ざされた。




top main
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -