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目線を同じくしたスグリに、ますます鹿は興味を示したらしかった。柔らかな花畑を踏みしめて、僅かな距離を詰める。

「わ」

なにかをスグリがするよりさきに濡れた鼻を頬に押し当てられて、スグリは思わず身体を竦めた。すぐに鹿の顔は離れていったけれど、スグリの胸はいきなりのことに跳ねあがった。これがもし熊であったら、とか、鹿に鋭い牙があったら、とかそういったことを考えてしまうのは、心配性のスグリの悪い癖である。

今度はこちらから触れてみようと、スグリは恐る恐る鹿の背に手を伸ばした。その手がそこに触れんとする刹那、ふいに鹿が頭を上げた。そしてスグリにもそうと分かるほどその全身に緊張を走らせ、スグリがなにかを言うよりさきに、傍らの花籠を蹴飛ばして驚くような速さで逃げてゆく。

あっけに取られて何事かと顔を上げた瞬間、スグリは息ができなくなった。

「…!!」

こちらにまっすぐと向けられるのは遠目でもそれとすぐにわかる鋭い矢尻。その陽光を刺す輝きに、文字通り射竦められて動けない。逆光でよく見えないが、ひどく背の高い人間がそこにいることだけはわかった。

「あ…」

逃げようと足を叱咤してもすこしも動かず、スグリは身体を固くする。しかしそんなスグリをよそに、鹿を見失ったと知った人影はすぐにその引き絞っていた弓を下ろした。それによって矢で射られることがないとわかり、スグリはそろそろと息をひとつ吐く。弓を向けられることは初めてだったけれど、背中がいやな汗でぐっしょり濡れるくらいには恐ろしい。あの鹿はいつもこんな目に遭っているのか、と場違いなことを思った。

「あ、あの…」

恐る恐るスグリが声を上げる。逆光のひとが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。その顔がしっかりと見えて、今度こそスグリは蛇に睨まれたカエルのように動けなくなる。その人間は、スグリの知らない男だった。

「…」

なにかを、言っている。意味ひとつわからないそれに、スグリは立ち上がって逃げることも忘れてただただ恐怖におびえることしか出来なかった。スグリが顔を知らないうえに、その腰には剣や矢筒が提げられて、スグリの見たことがないような服を着ている。かれがこの山に住む、狩猟のうまい集落の人間であることはすぐにわかった。

争っては決して勝てない、ずっとスグリたちが怯えて暮らしていた人間が、目の前にいる。それが戦うことのできないスグリの身体を射竦め、はくはくと定まらない呼吸を繰り返しながら、スグリはゆっくりと瞬きを繰り返した。

長く紅い髪を頭頂近くでひとつに括り、意志の強そうな薄い茶の瞳をまっすぐにスグリに向けているその男。年のころは、ちょうどクサギと同じくらいだろうか。スグリよりいくつか年上のように見える。そしてムラでも屈指に背の高いクサギと、同じくらいに背が高い。恐ろしいほどに感じる威圧感に、スグリは何も言えなくなってしまった。

まだ何か、スグリには分からない言葉で男はスグリに話しかけている。ただ首を振ることしか出来なくて、スグリは自分で集めた花にまみれてひたすらに目の前の男がどこかに行ってくれることを祈った。

「…」

ふいに言葉を切った男が、スグリに触れられるほどの近くまで寄ってくる。逃げようと腰を浮かせたけれど、慌てるあまりそのまま尻もちをついてしまった。花の強い香りが、ふわりと周りにまき散らされる。

「ひっ…」

男の形のよい唇が、なにか言いかけたように開かれて、そして何も告げぬままに閉じられた。そしてその腕は、スグリの細い首を容易く折ることはなく、黙って散らばった花へと伸びる。思わず目を見開いたスグリの前で、その異族の男は手早く花を集めていった。

「え…?」

何が起こっているのか理解をしきれていないスグリのまえで、男は手際よく籠に花を入れ直している。スグリの服に引っかかった花まですべて取って元に戻してしまうと、男は僅かに目を細めてスグリの膝の上にその籠を乗せた。

「…あ、」

呆けたようにその男の顔を見つめていたスグリが、慌ててひとつ頭を下げる。男はかるく首を振って、それから座り込んだままのスグリに手を伸ばしてきた。それを取っていいものか、それとも駄目なのか考えるよりまえに、スグリはその手を掴んでしまう。力強く引き起こされて、スグリはすこしふらついた。

「あ、その…、ありがとう」

男のその淡い茶の色をした瞳があんまりにきれいだったから、スグリは通じないとわかっている言葉でそんなことを言っていた。案の定首を傾げた男が、それでもなんとなく意味を感じたのか唇の端を上げて頷く。かれはとん、と自分の胸を拳で叩いて、それからもともとかれが来たほうを指差した。あちらに住んでいる、ということだろうか。

「えっと…俺は、」

なんとなくこの男に先ほど覚えた身が凍るような恐怖を失ってしまったスグリは、それに応じて自分の胸を拳で叩き、自分が来た道を指差す。男にもそれは伝わったようで、かれはひとつ頷いた。

かれの背の高さは、隣に立ってみればよくわかる。スグリの頭のさきは、ちょうどかれの胸くらいまでしかなかった。けれどさきほど感じた威圧感をもうスグリが覚えないのは、花を扱うかれの手がひどくやさしかったからだろうか。

「…」

なんとなくスグリは、籠のなかから一番大きな真白の花を掴みだし、それを男のまえに突き出していた。嬉しかったのかもしれない。異族の男はスグリを取って喰いはしなかったし、やさしくもしてくれた。かれの大きな手は、クサギに頭を撫でられたときのようにあたたかく安心感をスグリに与えたのだ。

俺に?とでも言いたげに、僅かに目を丸くした男が自分の胸を指差す。それに頷いてその手に花を押しつけて、スグリはぺこりと頭を下げた。早くムラに帰らなければ、今度こそほんとうに心配を掛けてしまう。花冠を編むのだってすぐ出来るわけではないことを、今更ながらに思い出していた。

花はスグリのせいで鹿を狩れなかったことへの、スグリなりの謝罪だった。スグリの顔と手の中の花を見比べていた男が、ひとつ笑う。笑えば存外にかれが幼い顔になることに、スグリはすこし驚いた。



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