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「悠里ッ」

鍵が開く僅かな間すらもどかしく、柊は第二音楽室へと飛び込んだ。それからいつもどおりピアノの前に座っていた悠里に駆け寄る。僅かに驚いた顔をした眼鏡のない、しかしコンタクトもしていない瞳が丸く見開かれて柊を見た。その唇が、何か言いたそうに震える。
しかしそこから何か言葉が漏れだす時間すら惜しく、柊はそのままの勢いで悠里の身体を抱きすくめた。驚いたように身体をこわばらせた悠里はそれでもすぐに肩から力を抜くと、ぽん、と柊の背中に長い腕を乗せる。

「もう平気か?」
「…へいき」

やさしい声が耳元で尋ねた。こんな時まで、悠里はやさしい。柊のまえの悠里は、いつもこうしてやさしかった。どんな時でも。氷の生徒会長なんてあだ名ににつかわしくないかれのその柔らかな熱は、柊のあわい恐怖に凝ったこころをやさしく溶かしていく。

「顔みて話を、…したかった」
「うん」
「ピアノ、あとで弾く。弾くから」
「わかった。先、話聞く」

ゆっくりと悠里の身体を解放して、驚いたような不思議そうなかれの表情から柊は目を逸らした。意識をしてしまえば頬に熱が上がってどうしようもない。それからぎこちなく首を廻らせて開けっぱなしになっている扉に気付く。慌ててそこに鍵をかけ、柊は指定席のクッションの山に腰掛けた。いつもどおりに。

「…千尋は、俺のこと好きだって言った」
「うん」

そして柊は話し出す。なにから話そうかなんて決めていなかったけど、その言葉が自然と口を出た。あの声は、目は、まぎれもない本物だった。恋をしていた。恋をしていることは、とても素敵なことだ。くるしくて、つらくて、たまらないけれど、それでも。

「俺はマニュアル通りに行動したつもりはない。…だから多分、あいつは、ほんとの俺を好きになってくれたんだと、思う」
「…俺もそう思うよ」

悠里が答える。じっとその目が柊を見ていたから、柊も今度こそ目を逸らさずにまっすぐ悠里を見つめた。黒の瞳が、やさしい。

「…でも、だから、俺はちゃんと断ったんだ」

濃い睫毛が瞬いて、悠里の目が続きを促す。かるく頷いてから、柊はゆっくり深呼吸をした。

つらいしくるしいしもどかしいし、こわい。大好きだから、伝えるのがこわい。いつもどおりにいられなくなるのも、つらい。だけれどこの想いを伝えられないままでいることのほうが、きっともっとずっとくるしい。

「俺は、悠里のことが好きだから」

胸のつかえが、唇をこぼれおちた。その瞬間、あれほど大きくとどこおっていた喉の奥の熱がすとんと下る。ちゃんと言えた。マニュアルには告白の仕方なんて一行も書いていなかったけれど、柊は自分できちんと恋をしようと踏み出した。

「お前が、好きだ。お前が笑うところを見ていたいし、傍にいたい。ほんとうは俺が、お前のことを、守ってやりたい」

悠里の眉が跳ねあがり、その瞳がさっきとは比べ物にならないくらい見開かれる。ぱちぱちと長い睫毛が目尻を撃つのを見ながら、柊は立ち上がってゆっくりと悠里の傍に寄った。かれは身動ぎひとつしない。ただ柊のことを、目を丸くして見ている。

「…ひいらぎ」
「…こんなこと聞いても、やっぱりお前は、笑わないんだな」

言えた。隠さず躊躇わず、好きだという気持ちを告げることが出来た。それは柊にとってなにかとても大切な、かれの価値観すら変えてしまうような出来ごとに思われる。好きで好きでたまらないひとに、…拒まれるかもしれない、ふたりの関係が変わってしまうかもしれないと思いながら思いを伝えるということはとてもとても怖くて――、そして、大切なことだ。

それから柊はかれに触れたくて、ゆっくりと悠里の形のよい顎に指をかけた。椅子に座っているせいで頭の位置が低いから、身を屈めてそっと悠里に顔を近づける。何か言おうと悠里が口を開いたから、柊はすこしだけ待った。拒まれたら、きっとすごくつらい。けれどそれはしかたがないことだ。それを覚悟して、柊は想いを伝えたいと思ったのだから。

「ひとに好きになられるってことは、すごいことだって」

しかし悠里の唇を零れたのは、柊のことを拒絶するような文句ではなかった。ただそうやって瞳を伏せた悠里が吐き出す。殆ど吐息のような声だった。どこかやさしくやわらかい、素の悠里の声だ。

「…俺は、お前に言おうと思ってたんだ」
「うん…」
「…ええと、それでだな」
「…伝えたかった、だけだから」

そうやっていってやれば、殆どやる気のない形だけの抵抗を悠里がする。緩慢に首を振った。それから柊の短い髪を掴んで軽く引っ張るけれど、その手つきがかれらしくひどくやさしいせいで髪を撫でられているような気分になる。なんとなくそれに笑ってしまえば、悠里が擽ったそうに瞼を震わせた。

子供に親がするように、柊はかれの額に頬を擦り寄せる。それでそっと、薄い瞼の上にひとつ口づけを落とした。それにびくりと驚いたように肩を震わせた悠里を解放して、澱を吐き出した柊はひどく清々しい気分でわらう。

「ピアノ、弾く」
「…あ、ああ」

柊の心は驚くほど穏やかだ。完全にペースに流されて混乱している悠里には申し訳ないが席を譲ってもらって、鍵盤のうえに指を滑らせる。ピアノを弾くことがすきだった。…音だけは偽らず飾らず衒わずに、いつも柊の気持ちを紡いでくれるような気がしたから。

だれかのためにピアノを弾けばきっとその音はなにかを伝えてくれると、そう言ったのは柊のピアノの先生だった。その言葉だけはひどく心に残っている。――奏でた音をささげたいと思えるような相手に出会えたならば、それはきっとしあわせだ。

この音が少しでも悠里のことを喜ばせられるのなら、ピアノを弾く上でそれ以上の喜びはない。ゆっくりと鍵盤を押し込んで、そして柊は指を滑らせた。鍵盤の上を滑る指がそのままその気持ちを紡ぐ。楽譜など必要なかった。

次第に悠里の表情が、穏やかでやさしい笑みに染まっていく。身を乗り出して黒鍵と白鍵を行き来する柊の指をぼうっと見ている悠里の横顔になぜか心がとても弾んで、柊はそんな自分に苦笑をした。

拒まれなかった、だけだ。いつもと変わらず、素の笑顔を見せてくれている、だけだ。だけれど今はそれだけで十分だった。ようやっと自分の気持ちを伝えられた。たった数日胸に秘めていただけでくるしくてたまらなかった胸のなかが、今は晴れやかに凪いでいる。

あとでピアノのうえの悠里のマニュアルの転校生部門を読んでおこうと思いながら、柊はうっとりと眼を閉じて紡がれるピアノの音に耳を傾けている悠里の、甘く蕩けた笑顔にしばらくのあいだ見とれていた。




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