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「…信じてやればいいんじゃねえの?」

それからしばらくたって、洸はようやっと吐き出した。包帯を取り換えにきてくれた看護婦と郁人がしばらく談笑をしているのを眺めていたあと、再び部屋に訪れた沈黙のさなかである。

「或人さんとか、普の兄貴とか、政治に携わってる人のこと。…あとまあ、あれだ。糞皇子」

ほんとうに忌忌しそうに最後に凪の名前を付け加えて、洸は表情を綻ばせた。いくつになっても子供っぽさの抜けない笑顔である。郁人はそれをみてほっとしてしまっている自分になんとなく照れたような気分になりながら、このお馬鹿にしてはよく出来た回答に思わず頷いていた。

洸が自分のことを励ましてくれようとしていることくらい、わかる。するりと郁人の頬を撫でては離れてを繰り返すかれの指はとても大切なものを慈しむような手つきで、それが自惚れでないことをよく知っている郁人はその心地よさにつられて目を閉じた。

「そうだな…」

とりとめもなく広がっていた思考を、郁人はそう呟いて打ち切った。ほどなくして、夜の帳が下りた病室に控えめなノックの音が響く。洸の手指が郁人の頬を滑るのをやめ、代わりに傍に立てかけてある剣を手にして立ち上がった。なんとなくぐずぐずと目を閉じたまま、郁人は気配のほうに顔を向ける。

「…あ、お前らか。郁人起きたぞ」
「本当ですか!よかった…!」

それで聞こえてきた弾んだ声に、思わずひとみを開く。ラインハルトとシオンの姿を捉えて、郁人はようやっと話が聞けるとどこか怖いような、それでいて早く知ってしまいたいようなもどかしい気分になった。
まだどこか気怠い感じは身体に残っているが、それでもなんとか体裁だけでも整えようと身体を起こしてふたりを迎える。

「やあ、ふたりとも。首尾はどうだい?」
「…なんだ、案外元気そうだな」

なんて言いながらもラインハルトはひとつ安心したように息を吐いた。それから寄ってきたシオンが、傍にあるテーブルの上のものに目を止めて黙りこむ。ターバンの奥のルビーの瞳が不安そうに歪んでいた。

「…シオン。きみのおかげで、助かったよ。あの戦い方を目にしていたおかげで致命傷は免れたからね」
「ほらラインハルトさん、バレてるー」
「…なんでも俺に振るな」

そこにあるのは郁人の腹に突き刺さったナイフだ。あの娘の戦い方がシオンと酷似していたことに、洸はどうだかしらないが郁人はとっくに気付いている。

「…何も聞かないよ。そのナイフはきみにあげる」
「……ありがとう、ございます」

ちょっとだけ、自嘲気味にシオンが笑った。そのナイフをポケットに放りこみ、ぺこりと頭を下げる。そんな部下を見ているのか見ていないのかそれとも見ていないふりなのか、ラインハルトはすぐに話を切り出した。少しばかり疲れているように見える。

「東の街には騎士団が勢ぞろいだった。お前の兄君に会ったが、被害はそう多くなかったそうだ。ほぼ壊滅させられたといっていた。…、また顔を見せてほしい、だそうだ」

そんな話を聞いているあいだに、郁人は洸の手にぞんざいにベッドに押し戻されていた。けが人だぞ!とわめくと、だから寝てろって!とデコピンをされる。ちょっと痛かった。こころここにあらず、といったシオンがそれをみて少しだけ笑みに表情を崩す。

「…きいているのか?」
「聞いてるよ、ラインハルト。研究所のほうは?」
「そちらも、壊滅だ。めぼしいものは何も残っていなかった。持ち去られた、というよりは破壊されたというほうが合っているだろう」
「そうか。…すこしは安心出来る材料だな」

ほっとしたように郁人が笑みを浮かべる。研究室が残っていてすぐに研究が再開されるのも、技術が山の国に渡るのもどちらも防げたのならば、最悪の事態は少なくとも遠ざけられた。凪が生きている、というのも大きい。なんとか瀬戸際で、即時開戦は避けられそうだと郁人は判断をした。ラインハルトはかるく頷いて、それからすまないが、と話題を変える。

「…こちらもそろそろ上層に報告をしなくてはならなくてな。お前には悪いんだが…」
「かまわないよ。おれもさっさと事務所に戻るつもりだし」
「だめだ」
「…、さきに国に戻ってくれて構わない。道案内はいるか?」
「……、いいや、いらん」

こんな気の立っている洸を郁人という鎖から引き離す気は、ラインハルトには更々なかった。華麗に洸の鋭い視線をスルーした郁人はそうか、といって笑みを見せる。

「今回は、こちらもたくさん収穫があった。おかげで家族も友も救えたからね。ありがとう」
「ああ。…また何かあれば頼む」
「もう危険な仕事は受けねえからな」
「もちろんだ。いつでも言ってくれ」

ここまでスルーされているさまを見ていると、なんとなく洸に同情したくなってしまう。シオンは思わずくすくすと笑ってしまったのを洸に怒られながら、それでもなお楽しそうに笑っている。その表情に先ほどまでの翳りがないことを確認して、郁人は布団のうえからひらりと手を振った。

「じゃあ、気をつけて。また向こうでな」
「ああ。きちんと怪我を治せよ」
「お大事に、郁人さん。洸さんも頑張ってください」

夜が明けるまえにむこうにつきたい、というふたりを見送って郁人はてのひらを枕元のランプにかざした。ふたりがわざわざ立ちよってくれたことに感謝すると共に、ラインハルトの口から語られた言葉に安心したのもあって瞼が重い。

「…洸」
「ん。居るぞ」

目を閉じて手を彷徨わせると、すぐにてのひらが熱に包まれる。なし崩しで立て続けに起こったこの数日間の出来ごとが全部夢みたいだ、と思いながら、まだ燃えるように痛みを燻らせている傷口に巻かれた包帯に、反対側の手で触れた。

「うん…」

何か言いたいことがあったはずなのに、それは言葉にならずに甘えたような返事になって消えてしまった。僅かに洸が、笑う気配がする。

「なあ、郁人。やっぱりむこうに戻ったら、看板、何でも屋にしよう」
「やだ」

笑いを含んだ洸の声が心地よくて、郁人はとりあえずきっぱりとその提案を断ってから意識を睡魔に手渡した。やわらかい熱が額に触れて、それで離れてゆく。どこかでそれを追いながら、郁人はゆるやかに眠りのふちに溺れた。

もう夢は、見ない。そんな気がしている。







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