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「…もしもし」
「もしもし、柊?」

めずらしく気をつかってくれたらしい椋は、明日の新聞の記事も考えなきゃいけないから、と部屋を出て部室に向かっている。弟の部屋でなんとなく畏まって座りながら、柊は数分躊躇った挙句になんとか通話ボタンを押した。

3コールのうちに繋がった電話から、食い気味に悠里の声が聞こえてくる。かれのこえが畳みかけるようになにかを、大丈夫かとか怪我はないかとかそういった類のことを告げてきた。なんとなく口元が緩んでしまうのを感じながら、柊は大丈夫だよ、と答える。

「なんともない。…助けて、もらったからな」

電話の向こうで、わずかに悠里が黙る。思わず胸が詰まった。かれはこの身を、どんなふうに思っただろうか。しょうがないやつだと、情けないやつだと、思いはしなかっただろうか。

「礼なら、雅臣に言ってくれ。…あいつが教えてくれたんだ」
「…そうだったのか」
「椋くんも。椋くんが来てくれなきゃ、俺あんな教室わからなかったし」

転校生の危機を救うために生徒会長と風紀委員長が動いたことは、すでに学園でも噂になってしまっているようだった。あれだけ派手に悠里と雅臣がHRを飛び出したのだから仕方ないだろうけれど。ごめんな、と悠里がぽつり呟く。電話を掴む手が思わず震えて、柊は両手で携帯を持ち直した。

「怖かっただろ。…俺がお前と一緒に居すぎたせいだ。お前のルームメイトも、そうじゃなきゃあんなことは…」
「違う!」

柊は思わずそう大声を上げてから、ぎゅっと携帯を握りしめる。悠里はやさしい。あまりにも、やさしすぎる。そしてそのやさしさは、今の柊には毒だ。

「俺だ!俺が、俺が油断してたせいで、お前まで危険な目に遭わせて…!」

声を荒げる柊に、電話の向こうで悠里が沈黙をする。怒鳴ってしまうみたいになったことに気付いて慌てて言葉を切り、柊は悠里の出かたを窺うように少しだけ待った。心臓が耳元でばくばくと高鳴っている。悠里が好きで、どうしようもないくらい好きで、だからこそつらい。自分が、無様でなさけない。

「…柊は、強いな」

そして悠里が吐き出したのは、そんなひとことだった。笑いを含んだ声音がやさしくやわらかく囀る。

「俺ならきっと、悪いのは襲ってきたあいつだって言うよ。でもお前は違うんだな」

思わず黙り込んだ柊がどんな顔をしっているかなんてお見通しみたいだ。そっと傍に寄りそうような言葉の熱が、少しずつ柊のこころを撫でてほぐしていく。すきだ。悠里のことが、とても、すきだ。改めてそんなことを思いながら、柊は耐えきれなくなってぎゅっと胸元を握りしめた。

のどのおくに熱がつかえて苦しい。息ができなくなる。その熱さは、不快ではない。

「聞いてくれよ。俺なんて今日、眼鏡してるもんだと思ってて、コンタクト忘れちゃって」
「…ばっかじゃねえの」
「俺もさすがにそう思ったわ。黒板の字もどうせ見えないだろうから今日はもうサボる。だから」

どんなことを思って悠里がこんな話をしているのか、柊にはわかるようでわからない。頭ではわかっているのに、心はまだそれを受け入れようとはしていなかった。

悠里はこうやって、柊のために少しでもかれがいつも通りに出来るように、そんな話をしている。待っていてくれている。たまらなくなって、柊は胸のつかえをそっと吐き出した。

「悠里」

彼の名前を呼ぶと、すこしだけ喉の熱が収まった。うん、と答えて、悠里がそっと笑う気配がする。電話越しでは物足りなかった。顔が見たい、それからもういちど、ごめんといいたい。

今どこにいるんだ、と言いそうになった柊を、悠里の声が遮った。

「…な、柊」
「…おう」

少しためらうように、悠里の声がどもる。柊はそれを待った。彼の言葉を、いくらでも待とうと思った。マニュアルには一行も書いていなかった恋のくるしさもこの熱の行き場も、恋をすることのすばらしさもいまの柊には余すところなく分かる。つらくくるしく、いとしくやさしい。

「また、お前のピアノが聞きたい」

お前が、俺にピアノ弾いてくれたとき、すごく嬉しかったから。

僅かに照れたような気配を含ませながら悠里がそう言って笑ったとき、柊は思わず服の上から胸のおくの熱を掴もうと制服の生地に爪を立てた。唇を滑り落ちるのは、熱っぽい吐息でしかない。ほんとうはたくさん、たくさん伝えたいことがあった。けれどどれもひとつとして言葉になろうとしない。喉の奥の、もどかしい気持ちが圧倒的な質量で柊の気管を塞いでいた。柊はだから、行き場をなくした恋情に咽ぶ。

悠里のその言葉を聞いたとき、柊は育ち切った想いの実が鮮やかに弾け飛ぶような感覚を覚えた。悠里のそばに居たい。かれの目を見て、この想いを伝えたい。そんな気持ちで、胸が一杯になる。

「…落ちついたらでいい。いつものとこで、待ってる」

そうやさしく囁いた悠里の声で電話が切れた。電子音を鳴らす携帯を呆けたように見て、柊はじっとじぶんのてのひらを見つめる。

たった、一か月あまりの出来ごとだった。この学校に転校をしてきて、マニュアル通りに行動をして椋の影を探し、そしてマニュアル通りの行動をとるくせにちっとも柊の奥を見たがらない男と出会った。それからかれが気になって、かれを問い詰めて悠里のほんとうをしって、そしてそれからはとても早かったような気がしている。あっというまの一か月だった。かれと最初に生徒会室で過ごしていたころ、それから悠里がいったいつものところ、あの教室で過ごした時間、いつからか柊は、悠里にどうしようもなく惹かれていったのだ。好きでいることを自分では気付かないくらいに、それはひどく自然で、やさしい恋だった

じっと見下ろした自分のこのてのひらに何ができるのか、柊にはまだわからない。わからないけれど今この手は、かれのためにピアノを奏でることが出来る。それを悠里は、待ってくれている。

柊は立ち上がり、考える前に椋の部屋を飛び出した。あの場所へ、悠里と過ごした第二音楽室へ向かうために。




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