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「まあそうだな。血塗れの人間が担ぎ込まれた病院なんて、さすがに帝都が広くてもここくらいしかないだろうな」
「お前さあ、そんなに喋って痛くねえの?」
「ちょっと痛い」
「じゃあ黙っとけ!」
昨日のうちにラインハルトとシオンはこの病院まで来てくれたらしい。大体のことは真琴から聞いたようだった。でなければまともな回答など出来っこない洸相手に苦労しただろうことを思い、郁人は大きく胸をなでおろす。二人はいま、東の街の様子を見に行っているそうだ。いつもどおりぺらぺらとしゃべる郁人に、洸は先ほどから気が気ではないらしかった。
「おれたちの仕事もおしまいだ。謎はいっこも見当たらなかったけど、まあ凪を守れて戦争も防げそうだからよしとしよう」
「…それのどこが探偵の仕事なんだよ」
「おれも知りたい」
むぐ、と林檎のすりおろしたやつを乗せたスプーンを口に突っ込まれて、郁人はついに黙った。どのくらいこの病院に世話にならなければならないのかは見当もつかなかったが、感染症の類さえなければあまりおおごとにはならないだろうと客観的に思っている。ちょっと臓器に傷がついて死にかけたくらいだ。洸は心配性すぎる。
「味はまだわからないか…」
「どう考えても重症じゃねえかよ」
かろうじてそれを嚥下すると、腹の筋肉が動いたのか僅かに痛みがあった。この分ではしばらく日常生活に戻るのは無理だろう。こんな怪我をするつもりはなかったせいで、郁人の今後の予定は大幅に狂っている。
「…おい、洸。おれのこと背負って事務所まで帰れる?」
「却下。おまえはおとなしく寝てろ」
依頼もないわけじゃないのに、と眉を寄せた郁人に洸はあきれ顔だ。俺がどれだけ、といいかけて、諦めたみたいで言葉を切って黙りこんでいる。
老医師は先ほど郁人と問診もして平気そうだとはいっていたが、洸はしばらく郁人に無理をさせる気はこれっぽっちもない。このベッドに縛り付けてでも、医師がいいというまではかれを自由にさせる予定はなかった。ため息ついでに見た窓のそとは茜色に染まっている。そろそろ夜になりそうだ。相変わらずそれほど賑わうわけでもないが、人がいないわけでもないこの病院をへたに歩きまわれば過去の知り合いに出くわす可能性の高い洸にとってそちらのほうが有難い。
洸さん!何処に行ってたんすか!なんて後輩ややんちゃをしていたころつるんでいた連中に見つかるのは、避けたい。郁人とも面識のあるかれらにこんなザマを見られては、なぜしっかり郁人を見張っておかなかったのかと怒られることは請け合いだった。
なんて考えることに、今ここが海の国であることを思い知らされる。東の街は、どうなっているだろうか。あまりあの襲撃の被害が大きくなければいいのだけれど。
「…しかし、長かった」
もの想いに耽りながら林檎の皮を端からしゃくしゃくと食べている洸の手のほうに、ぐらりと不安定に揺れて郁人が手を延べた。掌でそれを受けとめて、洸は郁人の顔に視線を落とす。かれはといえばいつからか、じっと洸のほうを見ていたらしかった。
「アルメリカが持ってきた依頼から、まさかこんなことになるとはな」
「はは、帰ったらアルメリカに言ってやれよ。お前のおかげで戦争を未然に防げたぞってな」
きっとあの子はびっくりするだろう。妹のように思っている看板娘を思い出し、それから郁人は表情を曇らせた。
「…鈴音、元気だろうか」
あれだけの惨状を眼前で目撃した齢十四の娘の心情はいかがなものであろうか。ましてや鈴音は屋敷のなかで蝶よ花よと育てられたのだ。兄としての心痛が、かれの整った顔立ちをゆがませた。
「少なくとも、今のお前よりは元気だと思うぞ」
洸はそう笑って言って、さらりとその前髪を指先で掬う。擽ったそうに肩を竦め、郁人はそうか、とため息のように吐き出した。そうだといいんだけど。続いた言葉の語尾が消える。
「お前は自分の心配をしてろ」
「…そうだな」
凪は、どうしているだろうか。大丈夫だよと手紙でも出してやったほうがいいかもしれない。きっと、不安がっているだろう。それからラインハルトには研究所がどうだったのか詳しく聞かなければならないし、森の国に帰ったらかまけていた地道な仕事を片付けなければ。謎が手に入れられなかったことを思うと、郁人の頭脳は貪欲に仕事を求めた。なにかのために頭を動かしていなければ、いやおうなしに考えてしまう。
「…なあ、洸」
「うん」
「この国は、大丈夫かな」
郁人にとっては中枢近く、政情を左右出来る場所にいる国である。愛した国だ。蹂躙され、破壊されるのは想像するだけでぞっとする。たいせつなものが、山ほどあるのだから。
「間違いなくこの国でも開戦論は高まるだろう。いつまでも言論統制を敷けるわけでもない。どちらかが森の国の魔石をあてにすれば、三国での大戦になってもおかしくはない」
「…」
「おれは、…おれはただ、いままでどおりにそれぞれ均衡を、保っていればいいのにと思うだけだ。おれは、いまただの私立探偵なのに。もう東の大公候補じゃない。なのに」
何かをしなければならない気になってしまう。出来ないのに、してはいけないのに、いてもたってもいられない。そんな複雑な気持ちが混ざりあった郁人の表情に、洸はひとつため息をくれてやった。
むかしから、こうやって郁人に縋られるよう、頼られるような顔をされると洸は弱い。手を差し伸べてやらなければならないような気になる。かれに差し伸べられるような希望を、洸は示してやれないのに、だ。
だから言葉の代わりに、郁人の手を両手で包んだ。伸びてきた郁人の指が洸の剣のせいでできた胼胝で節くれだった長い指を捉えて、緩慢に引く。大丈夫だ、といってやれるほど、洸は郁人の憂いを軽く見てはいなかった。そのせいで何も言えないで、ただその手を撫でさすってやることしか出来ないでいる。それでも郁人が心地よさげに目を閉じるから、洸は郁人のように回転が速いわけではない頭でゆっくりと考えることにした。