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昏々と眠り続ける郁人の枕元に、洸は座っている。
帝都にある小さな個人経営の病院に郁人を担ぎこんでから、すでに一日半が経過していた。洸が再度この椅子に座ったときは昼間だった外はすでに暗闇に染まり、夜明けを待つ静かな帳が広がっている。ランプの火は消えてしまっていたが、再び付ける気にもなれずそのままにしてあった。

ナイフを摘出する手術はきのう、無事に成功をした。傷ついた器官をどうやら繋ぎ合わせて、峠は越えた状態だ。かれを死の淵にまで彷徨わせたナイフは洸の傍にあるサイドテーブルの上で鈍い輝きを放っている。出血が多すぎたせいか、まだ郁人の昏睡は解けていなかった。

洸が向かったこの病院は、城下町でも奥まった場所にある個人経営の病院である。洸はこの病院の医師の腕を信じていた。
昔、まだ洸が騎士学校の学生だったころ何度も世話になった老医師は久方ぶりに見る洸に目を丸くして、それから腕の中のナイフが刺さったままの郁人を見てもっと目を丸くした。
緊急の手術を老医師が始めてくれてからしばらく、洸の手は震えつづけていた。手術が終わり医者が洸の肩を叩いてもまだ、震えはすこしも収まらなかった。

「…大丈夫、命に別条はないよ」

その言葉を聞いたとき、すっと震えが止まった。何も言えずにいる洸に病室を指し示し、医者は欠伸をしながら自宅でもある階上へ上がっていってしまったけれど。ああまだ礼も言っていない。忘れていた。何度か様子を見に来てくれたときに簡単な食事まで洸に準備してくれていたのに。あとで郁人に怒られるなあ、と洸は思って苦笑いをする。もとはといえば悪いのは郁人なのに。

点滴の繋がった郁人の手は暖かい。一定のリズムでとくんとくんと聞こえてくる心臓の音を、これほど愛おしく思ったことは、なかった。

「…早く起きろ、馬鹿」

そんでもって、一発殴る。ひとりごちて、穏やかな郁人の寝顔を見た。洸がどんな思いをしたかも知らずに寝こけている郁人に、ようやっと憤りが湧いてくる。いままではそれどころではなかったのだ、と気付くと同時に、洸はひとつ安堵のため息をついた。昨夜は一睡もしていないが、今日も眠る気にはなれなかった。

ちいさなころ、郁人が流行り病を引きこんだことがある。もとはといえば洸がもらってきた風邪が郁人に伝染り、軽く済んだ洸と対照的に郁人はずるずると半月ばかり寝込んでいた。一時期は命が危ぶまれたほどの高熱で、その時もこうして親や兄の目を掻い潜って郁人の枕元に座っていたのをよく覚えている。洸が呼んでも、手を握っても、なにひとつ返事を返してよこさない郁人の姿は当時の洸にとって衝撃的すぎた。死というものの影を、初めて洸が恐怖したきっかけである。

その時と、同じような気持ちがしていた。どれだけ洸が強くなろうと、死という別離だけは覆すことが出来ない。一度それを越えてしまえば救いようがない。そして洸は、それが死ぬほど怖かった。

「起きろ」

波のように不安が寄せては返す。老医者は命に別条はないといったが、あれだけ血が出ていたのだ。城からこの病院までの距離も決して近くはない。丸一日以上郁人が目を覚ましていないのも、かれがもうすこしで臓器をひとつ失うところだったことも、しかもここに来る途中で兵士に追いまわされて時間を喰ったのも事実だ。怖かった。

洸は泣きそうになるのをどうにか堪え、掴んだままの郁人のてのひらに祈るように唇を落とした。血に染まっていたそこは看護婦の計らいできれいに清められている。あれだけ真っ赤になっていたのに、と思いながら、今度こそぎゅっと目を閉じて涙を堪えた。

郁人が起きたときに瞼が腫れでもしていたら、ぜったいに笑われる。それは避けたいところだった。手術のときの麻酔が切れるはずの時間はとうに過ぎているから、郁人はいつ起きてもおかしくないのである。

「!」

僅かに郁人の表情が揺らいだような気がして、洸ははっとして身を乗り出した。暗くてよく見えないが、確かに今僅かに瞼が震えたような気がする。慌ててランプに火を灯し、再び目を凝らした。オレンジ色の灯に顔を照らされた郁人の亜麻色の瞳は、薄い瞼に覆われたままだ。

「郁人」

顔を覗きこんで名を呼ぶ。返事はない。軽く頬を叩いてみると、今度こそ確かにかれの眉間に皺が寄った。顔を寄せ、耳元でもう一度名を呼ぶ。不安だった。声が聞きたい、と焦げ付くように思う。

「郁人!」

洸の手の下で、微かに郁人の肩が揺れる。郁人。声にならない声が、洸の唇を洩れた。息を呑んで間近な顔を見つめていると、その密な亜麻色の睫毛がふるりと瞬く。寸の間の沈黙を置いて、ゆっくりと郁人が目を開いた。

「…!」

言いたいことは山ほどあったはずなのに、ひとつも言葉にならない。一発殴る、とつい先ほど考えたことも忘れて、洸はわななく唇から吐息をひとつ吐きだした。

それがくすぐったかったのか、再び何度か長い睫毛が瞬きをする。そのたびに少しずつかれの瞳の焦点が合っていくのがわかった。

笑ったように、見える。ちいさいころ熱病で死にかけたとき、ふいに目を覚ましてはずっと泣いてばかりいた洸の頭を撫でてくれたときのように。けれど洸は、今泣いてはいない。そのかわりに震える手指で郁人の頬をするりと撫でる。すると緩慢に布団のなかから抜けて出てきた郁人の手が、ぽん、と洸の頭に乗った。

その拍子に、耐えきれなくなったように洸の翡翠のいろをした瞳からひとしずくだけ、涙が零れて郁人の頬を濡らした。





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