雨を請うひと | ナノ


  6




「…セツは必ず守ってみせます」

唇を固く引き結び、戦慄く妻の肩を抱いているセツの父が、その言葉に喉を鳴らす。聞いたこともないような居候の青年の真摯な声と眼差しが、かれのこころを打ち震わせた。

息子が勇者に選ばれたことを、本来ならば誇らねばなるまい。喜ばなければなるまい。けれどあのやさしい子が、本人の口から言うのをはばかるくらいに思い悩んだくらいには、それはどこか死の宣告に似た響きを持っていた。

だれかが今の魔王を倒してさえくれれば。そうすれば手放しに、セツのことを喜んでやれた。胸を張って送り出してやれた。けれど今、どうすれば息子に「行くな」といわずにいられるだろうかと、かれは本気で悩んでいる。

「どんな犠牲を払ってでも、必ず守りとおします」

セツの前ではそんな素振りひとつもみせないくせに、いまのレインは押し殺しきれない激情でいっぱいだ。そのきれいなルビーのいろをした瞳が、昏く輝いてかれの瞳を射ぬいている。息子と同じ空の色をした瞳を伏せて、かれは暫し沈黙に沈んだ。

「…あなたに何かあっても、セツは悲しむわ」

妻の身体の震えがいつしか収まっていたのを、セツの父は知らずにいた。それほどに動揺しているのだ、と気付いて額を押さえ、妻の横顔を見る。その瞳は穏やかだ。どこかなにかを悟ってしまったような、そんな表情をしている。

嘗て彼女が聖女のもとにいたときに、聖女は彼女に言ったそうだ。

「もしも絶望が待ち受けていたのなら、そのなかにひとつでも希望を見つけ出しなさい」

きっとあの人は見つけたはずよ、と、妻はいつか夫に語った。魔王にかどわかされ、たったひとり恐怖におびえる彼女はきっと、なにかひとつでも希望を見つけ出したのだろうと。聖女はそんな、つよいひとだったのだという。

彼女もまた、つよいひとだ。きっと見つけたのだろう。この絶望的な状況下で息子を冒険へと送り出すうえでの、希望のひかりをひとつだけ。

「もちろん、わたしたちも」

目を見開いたレインのほおに、彼女はそっと手を添えた。母と呼ぶには過ごした月日はあまりに短く、他人と呼ぶには彼女はやさしすぎる。だからレインは無言のままに、そっとその手に掌を添えた。

「…必ずふたりで、帰ってきてくれ」

そしてセツの父が、そう吐き出す。震える声はこれでおしまいにしようと決めていた。セツにはせめて安心させてやれるように、頑張ってこいと大きな声で言ってやろうと。そんな弱弱しいセツの父の声に力強く頷いて、レインは黒のローブを纏って立ち上がった。何かセツに渡す道具を探してくる、といって階下の倉庫に下りた夫を見送ったセツの母が、ゆっくりとレインの名を呼ぶ。かのじょの息子が救いそして名を付けた、不思議な青年の名を。

「…あのね、レインくん。変な話をすると思うでしょうけど」
「…」
「私は昔、聖女さまのもとで修業をしていたのよ。それでね、そのとき、彼女に言われたの。いつかあなたが子供を産む時、きっとその子はとても大きな困難に立ち向かうと」

夫にもそして息子にも、話したことのない話だった。かるく目を見開いたままの整った顔が困惑げに歪むのを、構わずに続ける。

「…セツ。あの子の名前は、あの子が生まれるずっとまえに、聖女さまがつけてくれたものなの」
「…、まさか」
「そのセツがあなたに名を与えた。きっとそれは、偶然ではないわ。…セツのこと、よろしくね。レインくん」

―――「知って」いたんですか、というレインの言葉を遮って、セツの母はふふ、と笑った。セツに良く似た、屈託のない天真爛漫な笑顔だ。薬草や魔法のポプリ、携帯食糧を抱えて戻ってきたセツの父のせいで、レインはそれ以上の追及を出来なくなる。

ほんとうはレインだって、セツが勇者として旅に出るのは反対だ。危険が付き纏う旅で、レインが一緒だってずっと傍にいられるわけではない。何かの拍子に危機に晒されてしまうことだってあるだろう。なんでったってよりによって勇者に、と思いながら、レインは長い髪を掻き上げた。セツと同じ、レモンシフォンの色をした髪を揺らして忙しなくセツの母が立ちまわっている。セツの父はどこかまだ切なそうな顔をして窓のそとをみつめていたけれど、レインの視線に気付いて慌てて首を振っていた。

当然だろう、と思う。何十人もの勇者が、旅に出てすぐにモンスターに襲われてあえなく負けてしまっている。死んでしまったものも、命ばかりは助かったけれど再起不能になってしまったものもたくさんだ。ひとり息子がそんな危険なものに選ばれてしまって心痛を感じない親はいないだろう。行くな、と、匿ってやる、と、言いたいに違いなかった。
だけれどもモンスターはそんな事情など鑑みてくれるわけもなく、平然と襲ってくる。街のなかにさえ。そうなれば、被害は大きくなった。セツがそんなことを望まないことくらい、生みの親はよくわかっている。

…そんなことはさせるものか。セツは必ず守り通して見せる。そう固く誓いながら、レインは不用意に魔力をほとばしらせないように気を張った。神殿では危なく魔法陣のひとつやふたつ展開してしまいそうなくらい冷静さを見失っていたのである。セツのまえではいつでも、レインは意地悪で余裕たっぷりな兄貴分でいてやるつもりだった。

そろそろセツが来ても良い頃だ、と思いながらなんともなしに窓のそとを見て、レインは思わずその双眸を見開く。窓のすぐそと、もっといえばこの家の玄関に、ユリアが、血相を変えて飛び込んできたところだった。




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