雨を請うひと | ナノ


  10


明らかに一黒魔導師の力の範疇を越えた魔法陣だった。此処まで広範囲に広がる魔導など、教科書や伝説の中ですら見たことがない。幻でも見せられているのか、とセツが目を擦っても、芳光を放つ魔法陣はさらに遥か彼方まで広がっていっている。浮足立ったモンスターたちが焦れたように襲いかかってくるのを、わずらわしそうにレインが睨みつけた。ここら辺では到底見ないような強そうなモンスターが思いきりこん棒を振りかぶってセツを地面にめりこませようとしたその瞬間に、かれの唇が薄く開く。

「凍結しろ」

ほんとうは馬鹿に長い詠唱を一言に凝結させ、レインはそう低く唸った。それと同時に、かちりと世界が音を立てる。頭を庇うように抱えることしかできなかったセツが恐る恐る目を開けて上向けば、こん棒はセツの頭蓋を叩き割ることなく、頭よりずっと上で硬直をしていた。

「…、れ、レイン…?」

まさかこれは、時間停止とか、そういう。
魔法陣だけが淡く光を放ち、世界は色を失って沈黙をしていた。動けるのはどうやらレインとセツだけで、座り込んだままセツは呆けてレインを見上げる。これはもう、街一番とかそういうレベルの魔法じゃないぞ、というのは、さすがにセツにもわかった。時間停止の魔導なんていうのは、勇者のパーティにだってそうそう使うことが出来る魔法使いはいない。ごくまれに大賢者とうたわれる魔導の天才くらいしか使えるはずないその上位魔法を、レインは詠唱短縮でやってのけたのだ。

「街を守りたい。…俺を死なせたくもない。もっといえば、魔王を倒したい。お前の望みはそんなもんだよな?」

まさしく悪魔みたいな顔をしてほくそ笑んだレインが、そんなことをいう。今にも襲いかかってきそうなモンスターたちの間に置かれ、セツには選択の余地などなかった。

「…う、うん」
「お前がひとつ誓うなら、全部叶えてやる。どうだ?」

もっというのなら、その言葉を穿ち疑う余裕もなかった。圧倒的な力を見せつけているレインを前に、なにかを口応えすることなどレベル4のセツには恐れ多くて出来るわけもない。だからこくこくと何度も頷いて、セツはレインのそのぞくりとするほど整った顔を見上げる。悪魔のような傲慢不遜な笑みが、どこか掌中の玉を愛でるような、そんなやわらかい眼差しになった。

「…二度と」

音すらも凍りついた時間のなかで、レインがゆっくりと口を開く。それはかれらしくもない、うちふるえるような声音だった。

「二度と、俺を置いていこうとするんじゃねェ」

それを聞いた瞬間、強張っていたセツの肩の力が抜けた。今目の前にいるこのばかみたいな魔力の持ち主が、紛れもなく居候の悪魔のような男であると直感したからである。かれは、レインだ。セツが名前をつけた、あの生き物だ。どこか拗ねたような響きすら感じ取れるのがあんまりにもかれらしいせいで、逆にセツは声を失い黙りこむ。返事がないことに焦れたように、レインが再度声を投げかけた。

「…俺をおいて、どこにも行くな、セツ」

選択の余地など、思えば最初からない。断れる提案ではないことなど分かり切っているし、これだけの力を見せつけられてしまえば頷きさえすればなんとかなるんじゃないかと思えてしまうのも事実だった。首を縦に、ひとつ振る。

「…わかった。約束する」

お前が一つ誓うなら、全部叶えてやる。…レインがそういうなら、きっとそのとおりなんだろう。そう口にしたセツに目を細め、レインがひどく淫靡に笑った。

「誓うな?」
「誓うよ」

すると、かれはその長身を折ってセツの前に片膝をつく。かれの長いローブがふわりと広がった。その顔を満面に彩るのは、まさしく。――まさしく悪魔が極上のたくらみを見事に成功させたような、そんな笑顔である。

「契約は成立だ」

するりと丸まって膝を握りこんでいたセツの手指が取られた。呆けてレインを見ていたセツがなにかをいうよりもさきに、躊躇いなくそれを口元へ運んだレインが、いきなり。

「いっ…!!」

がぶり、と薄くついた手の甲の肉に歯を立てられる。いきなりの鈍痛に目を見開いたセツに構わずに、レインは滲んだ血をその紅い舌先でつつりと掬い上げた。そのレインがひどく淫靡な表情をしていたせいで、セツはぞくりと背筋を縮こませてなにもいえなくなってしまう。

レインの咽喉が、セツの血のしずくを嚥下したその瞬間。

「あ…!」

世界に音が、色が戻ってきた。セツがこん棒の真下から退いていたせいで思いっきり空振りをしたモンスターがいやおうなしに間近で目に入る。セツの腕を掴んで立たせて、ばさりとローブを払ってレインが笑った。凄く悪い顔をしている。

何が何だかちっともわかっていないけれど嫌な予感で胸がいっぱいの勇者のまえで、それは起こった。すなわち。

――すなわちそれは、セツの肌が引き攣るほどの魔力の奔流が刹那ののちに魔法陣の上から湧き上がり、レインの大きな手に覆われたセツの目蓋のうらにまで灼き付くような閃光が炸裂するほどの、大魔法の発動であった。




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