月が昇り、婚礼の儀はムラの中心の儀礼場で盛大に行われた。新郎と新婦が大きな炎のそばで仲間たちに祝福を与えられているのを見ながら、スグリはちびちびとあまり強くない酒を呑んでいる。酒を飲むと翌日はひどく身体がだるいのだけれど、今日ばかりは呑まないとやっていられなかった。
カンナが家から居なくなる。どんなときも支え合ってきた姉が、恋焦がれた男とめおとになる。だというのに、素直に喜んでやれないのは、妹たちと同じようにスグリもさみしいからに相違なかった。
同じムラのなかとはいえ、カンナはクサギの妻となる。つまりクサギの家に入るのだから、これまでのように毎日長い時間を過ごすことはできなくなるだろう。もう彼女の作るスープを味わうことも、彼女の織物のすばらしい腕を眺めていることも出来なくなってしまうのだ。
「そう暗い顔をしなさんな、スグリ」
そんなスグリを見かねたか、長老がスグリの隣に腰を下ろす。スグリの何倍も長く生きているくせにまだまだ若々しいところのある長老は、先ほどから瓶で酒を煽っていた。そんな彼をほんのり赤くなった目元で見やり、スグリは酒臭いため息を零す。
「喜ばしいことですけど。…やっぱり」
「クサギも今日はあまり明るい顔をしておらんの。なにか憂うことでもあったのか?」
「わかりません。…どうしたんでしょう」
クサギはさっき、何かをスグリにいいかけた。…けれど、この儀がはじまってしまってはもう夫婦の契りは覆すことが出来ない。それにどこか安堵をしながら、スグリはやさしい義兄をちらりと見た。…目が合う。
「…」
その青の瞳は、ぎらぎらと炎に照らされて、じつとスグリの瞳を捉えていた。背中が粟立つようなその瞳に宿る感情を、スグリは知らない。こんなふうな顔をするクサギを、スグリは見たことがなかった。
このムラのものはみな赤茶けた髪と青や碧の瞳を持つ。それらはいつも慎ましやかにそれでもきらきらと輝いていた。クサギのそれは、とりわけてそうだ。将来を嘱望され、若い者たちを率いてささやかながらの狩りの先頭に立つクサギは、いつだって自信に満ちてきらめく瞳をしていた。
けれど今は違う。その燃えるような瞳のいろは、たしかに暗澹と凝った感情を映し出している。婚礼の儀を迎えた花婿の瞳には、到底につかわしくなかった。
「…見てはいけない、スグリ」
「長老」
クサギのもとへは届かない声で、長老がそんなことを言う。その言葉に救われたようにじっとこちらを見るクサギから目を逸らし、スグリは不安そうに長老を見上げた。
「…今だけだ。朝日が昇れば、クサギはカンナのものになる」
「…なんのことだか、」
「わからないのならばそれでいい。…見ないでいてやれ、スグリ」
そう長老に言われ、スグリはのろのろと視線を手の中の杯に落とす。赤い炎と星降る夜空が映るそこに、困り顔の自分が見えた。
―――花嫁は、ひどくきれいだ。スグリの作った花冠を頭に乗せ、しあわせそうに笑っている。そのとなりでクサギが何を思っているのか、スグリにはわからない。わからないから、ただ、かれが姉をしあわせにしてくれるよう、祈った。
「…そういえば、長老」
「ん?どうした、スグリ。次はお前さんの心配ごとか?」
「大したことじゃないよ。…ただ、山の上の集落のやつらって、ほんとうに怖いのかなって」
突拍子もないことを言いだしたスグリになにかを言及することもなく、長老は僅かの間、なにかを考えるように目を伏せた。そしてふいに、酒に枯れた嘆息を零す。
「同じヒトじゃ。悪いやつらではない。ただ」
「ただ?」
「あの部族は、昔からどうしようもないほどに、…女が産まれんのじゃ」
それをきいて、スグリは目を丸くした。つまり、と長老にいえば、かれはひとつ頷いて応じる。婚礼の儀のすぐ横には似つかわしくない言葉だった。
「…若い者たちが多くなると、やつらは周辺の集落から女を攫っていく。このムラも、スグリが生まれる少し前にな」
…山へは、決して行くな。スグリのきょうだいたちにはことさら強くいい聞かせられていたことを思い出す。それは、彼女たちが若い女だったからなのだ。スグリはあの、燃えるような赤毛の男を思い出して僅かに表情を曇らせた。もしもスグリが女だったら、かれはあんなふうにやさしくしてくれなかったのかもしれない。そのままかれらのムラに連れて行かれていたかもしれないのだ。
「それがどうかしたのか?」
「…なにも。そういえば、どうして仲良くしないのかなと思って」
長老はそれきり言葉を切った。ただ杯を仰ぎ、騒がしく踊っている火の周りの若者たちを見てその年輪を刻んだ横顔に笑みを乗せる。
「今日は宴だ。…スグリ、お前も、楽しいことだけ考えていなさい」
憂いを含んだその声に、スグリは何も言えなくなった。黙ってひとつ頭を下げて、ふたたび杯に口を付ける。まだ注がれるあの燃えるような視線には、気付いていないふりをして。
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bkm