「もう少しだ。大丈夫か、凪」
レイピアを鞘に納め、肩越しに凪を振り向いて郁人が声を掛ける。倒れ伏す兵士を見て苦々しい顔をした凪が頷くまで、僅かな逡巡があった。かれは郁人の傍まで歩み寄ると、指先でその頬に触れる。
「怪我をしている」
「この程度、問題ない」
そういって凪に笑いかけ、郁人は薄く切れた頬を手の甲で拭った。普段よりもずっと気を張って戦っていたせいか、怪我をしていたことも気がつかないでいる自分に驚いて、それからそれを凪に悟らせないように歩き出す。
「きみはおれが、必ず守る。その代わり、これを切り抜けたら凪、きみの番だよ。この国を頼む」
その背中が凪の目にどんなふうに映ったか、郁人は知らない。知る辺もない。だが肩に掛けられた手の熱だけはしっかりと、確かな質量をもって郁人に届いた。
「郁人、俺は―――!」
同時にそのまま、郁人がその手を払って飛び出す。神速の一撃が投擲されたナイフを切り払い、そして鋭い目線が長い廊下を曲がった先へと向けられた。
「凪、おれの後ろに!」
そう叫んで、郁人は風のように迫ってきた男の一撃をなんとか受け流した。続けざまに本来ならあり得ない角度からの二撃がきたのを、なんとか身を捩ってかわす。髪が数房持っていかれたのを見て背筋が冷えた。
「…ちッ」
その男は二刀流だった。洸からつい先日、東の街を襲ったすご腕の二刀流使いの話を聞いたのを思い出し、郁人の背筋にいやな汗が伝う。洸がつよい、と言った男に自分が敵う訳がないことを郁人は痛いほどに知っている。
「下がれ、凪!そのまま走って、」
「お前に用はねえ!」
二刀流の男はそういうと、両の剣を揃えて郁人に肉迫した。咄嗟にそれを弾いた身体ごと、郁人の身体が軽々と飛ぶ。
「が…っ」
廊下の壁に背中を強く打ちつけると同時、刹那息が止まった。凪、とそう名を呼んだはずなのに、少しも言葉にならない。苦痛に滲む視界のなかで凪は、いっそ神々しさすら感じさせるほど穏やかに立ち竦んでいた。
「っ凪!」
壁を蹴って、郁人が走る。振り下ろされた双つの剣を目視して、どくんと心臓が耳の傍で高鳴った。間に合わない。
一
閃
!
先に剣を振るったのは凪だった。十分に男を間合いまで引き寄せた凪の、抜き打ちの居合の軌道はまるで、三日月のように郁人の目には見える。
「…なかなかやるじゃねえか」
咄嗟に双剣を交差させて防いだ男が、肉食獣が獲物を見つけたみたいにして舌舐めずりをする。凪はすでに納刀をすませ、刃物のように鋭い瞳で男を真正面から睨みつけていた。
「わざわざ泳がせてここまで入れてやったんだ。あの黒髪の男がいない分、お前に遊んでもらわなくちゃな」
男はにっと笑う。洸のことだ、と郁人にはすぐに見当がついた。やはりこの男、父の命を脅かした二刀流の男に間違いない。そう考えると、既に軍部の包囲を受けていたこの城に容易く入り込めたことも納得がいく。今頃は帝都からの出口を押さえていたという兵士たちも山の国目指して落ち延びているはずだ。
ここだけだ。ここさえ抜ければ、もう大丈夫。ここで凪を守り切れば、山の国をこの国が早急に攻める理由はなくなるはず。郁人はそう思考に終止符を打った。
「郁人、大丈夫か?」
「…すまない、大丈夫だ」
傍らまで駆け寄ってきた郁人に不安そうな目を向け、凪はほっとしたように息を吐く。かれの怜悧な眼差しは、真っ直ぐに男を貫いたままだ。
「一気にいこう」
「わかった、きみに合わせる」
剣を構え直した郁人が、軽く頷いて左右を見た。退路は十分にある。この男さえ抜ければ、あとは合流を目指して走るだけだった。
「!」
二刀流の男が走り出すより一瞬早く、凪が動いた。郁人はそれを確認し、その一歩先を駆ける。片手殴りに斬りつける一撃を、身を捻って今度は冷静にかわした。速さならば郁人に利がある。
そしてガラ空きになった背中に一気にレイピアを突き立てようとして、
「あーあー、本ッ当見てらんない」
交差させた二本のナイフに、がちりとレイピアの刃先を食まれた。目を見開いて、郁人は廊下を蹴って一歩下がる。風のような速さで男の背中と郁人の間に滑り込んだのは、ターバンを巻いた人影であった。
シオン、とその名を呼びそうになって、郁人は頭の冷静な部分でそれをすぐに打ち消した。ターバンの隙間から覗く、ぎらぎら光る青の瞳。
「大体、舐めすぎ。アンタ今効き手ろくに使えないくせに」
そしてはっきりとわかるのは、目の前のこの人間が女であるということだ。澄んだ高い声が、揶揄るような言葉を紡ぐ。どうやら敵だ、と判断をして、郁人は力づくでまだナイフに食まれたままだったレイピアを引き抜いた。
辛うじて凪の剣撃を弾いたらしい男が、ちっと舌打ちをする。小柄な影はひゅうと口笛を吹いて二本のナイフをジャグリングのように跳ねさせた。うるせえ、と低く地の這うような声音で唸った男が、剣を引いて鞘に納めるのが見える。郁人は凪の傍らまで駆け寄ると、ターバンの少女にレイピアを向けた。二刀流の男は肩を押さえ、エントランスに続く廊下を駆けていく。あれで怪我をしていたのか、と空恐ろしい気持ちになりながら、郁人は目の前の少女へ意識を切り替えた。
「あっ、ひどい!逃げた!…ちょーっと、これは分が悪いかな」
少女は頭を掻いて肩を竦める。その肩越しに、洸と真琴が走ってくるのが見えた。
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bkm