07/02(Mon):<ひとけのない学校のプール>
たゆたう水面に影がふる。風ひとつ吹いていないのに幾重にも波がひろがっている。
うつくしい風景だと思う。あまりにも寂しい。ひたりという足音と、時折天井からしたたる水がたてる波音だけが反響をしていた。ゆっくりと歩いていく長く伸びた足を見る。均整のとれた肢体を晒して、身体を伸ばし解している。それをじっと見つめていた。またしずくがふる。雨音とはまたちがう、重なることのない音がする。
「どうしてここに?」
「お前こそ、なんでここにいるんだ」
他愛のない会話をする。そんなことをいいながら、かれは大きな水音を立てた。あの中にはきっと音のない世界が広がっているのだろうと思う。しんと透き通った世界だ。どこまでも澄み渡るような、宇宙には自分しかいないのではないかと錯覚してしまうような静かな世界が、そこにあるのだろう。羨ましいような気もする。空恐ろしくも思う。
静かにかれがゆく。きっと置いていかれるのだろうと思う。いつもそうだ。かれはずっと先にいる。並べたこともなければ、振り向いてもらったこともない。それでもよかった。何の音も聞こえない場所で、すこしの音も聞こえないほど静かに、かれは進むから。
「やっぱり手術は受けないことにした」
かれの世界のそとがわという枠組みで、そんな音を零してみた。無粋だと思う。卑怯だとも思う。
「さよならを言いにきたんだ」
月明かりが降り注いでいることに気付いた。白に影を落としている。海よりも深い藍のいろのなかに光が差し込んでいる。きらきらと瞬く。きれいだ。とてもきれいだと思う。この場所がすきだった。かれのとなりには立てない場所だった。
かれが二十五メートルむこうからこちらまでやってきたのがわかった。ゆっくりとその身体が戻っていく。水音はやはり立たない。静かだ。波濤の音がかすかに聞こえるだけ。とても静かだった。
「ごめん。さよなら」
座り慣れないベンチから立ちあがる。がらんと大きな音が響く。松葉杖を拾い上げる。俺は痛む足を堪えて杖を進めた。これを二本の足のように繰るのは思ったよりも難しいとすぐにわかった。俺の耳を衝くこの音にも聞きなれた。煩いのは嫌いだ。ずっとあの中にいたから。何も聞かずに静かな世界で生きていたから。蒼い世界の中には俺とかれしかいなかったから。
背後で何か水音が立った気配がした。俺は振り向かない。雲が月を覆い隠す。蒼に染まる。