水の名残



『遅刻するぞ遊馬』
「んんっ……」
 水底を流れるような、涼やかな声で目を覚ますようになって、どれほどになるだろうか?実際にはそれほど長い日々ではないのだが、もう彼の声なしの朝なんて想像もできない。
『ふぅ…仕度に時間がかかるだろう?遊馬』
 サラリとしたシーツの肌触りを感じて、遊馬は勢いよく身体を起こした。
 普段屋根裏のハンモックで寝る遊馬がベッドで寝る理由は、今のところ一つしかない。
「シャワー!浴びなきゃあああああああ!!!!」
 勢いよく起きた反動ではだけたシーツの下は何も身に着けていない。どころか、なんだか恥かしい名残で皮膚がカピカピと引き攣れる感じがする。
 何度体感しても慣れない状況に真っ赤になりながら遊馬は汚れた身体の上から部屋着を身に着けてシーツを掴むと廊下を駆け抜けた。
 洗面所に飛び込むと洗濯機にシーツを放り込みついでに部屋着も放り込みスイッチを入れた。アナログめいた九十九家だが、姉と祖母の熱烈な希望で食器洗いと洗濯だけは完全全自動になっている。遊馬としては他にも最新化してほしいところはたくさんあるのだが、家庭内の事で女に逆らえるほどの勇気は遊馬にはなかった。むしろそれは勇気ではなく無謀というのだろう。
 だが、今となってはこうして家族に見られず汚れ物を洗濯できるので感謝しているくらいだった。
 熱いシャワーを浴びて夜の名残を洗い流すと、冷えた制服のシャツが肌に心地よい。
 夜の名残。
 遊馬は傍らにふわふわと浮かぶ、相棒で恋人を見上げて小さくため息を吐いた。
 結局の所遊馬の肌に残る液体の残滓は自分自身の物でしかない。
 触れ合えようと、交われようと、所詮は本当の意味では重なれない。
 二人を構成する原子の一粒すら、互いの肌に残すことはできないのだ。 
 だから、ゼアルである時間は恍惚ですらあった。
 身体だけではなく魂まで交じり合うあの時間。
 指先まで力が満ちて感覚が広がっていくのを感じた。人ではない感覚はアストラルのものなのだと理解できる。同じように、アストラルもまた人間の感覚の一部を理解できたのだろう。
 けれど、離れてみればやはり二人を隔てる世界の壁を感じる。
 隔てられるほどに、重なりたいという思いが強まる。
 それはアストラルも同じなのだろう。
 性的な繋がり方を覚えて以来、二人の交わりは深くなる一方だった。
 No.96に倣って、身体を変化させる事を覚えたアストラルは、唇で指先で、そして触手で、遊馬の身体に触れた。
 身体のどこにも、アストラルが触れたことのない場所なんてもうない。
『遊馬、どうした?』
「うひゃあっ!」
 突然耳元で囁かれて、遊馬は飛び上がった。
 その声にゾクゾクしてしまうのだから、少しは考えてほしいものだ。
「いってきまーす!」
 元気よく駆け出して学校へ向かう。
 なんだかだるいような太陽がまぶしいような感覚はもう慣れた。
 アストラルと身体を重ねた翌日はだいたいこうだ。
 気を使うといけないからそんなことはアストラルには言わない。
 どんな濃厚な夜を過ごしても、ゆれることのない横顔を見上げていたら、小さく肩を揺さぶられた。
「遊馬!ちゃんと話聞いて!」
 ぼーっとしていた遊馬を心配して小鳥が声をかけてくれていた。
 聞き流してはいたが、5年後の自分に手紙を書こうと言う企画らしい。
 今時手紙なんて、正式な文章やら新年の挨拶くらいしか出す用事のないものだが、そんな手紙離れを食い止める企画なのかもしれない。
「5年後、か」
 中学一年生に聞く5年後なんて、それは高校生になっているくらいしか想像できない未来だ。
 だが、遊馬にはもしかしたら遠い日なのかもしれない。
 わいわいと騒ぎながら手紙を書き始めた級友を横目に、遊馬は慣れない仕草でペンを動かし始めた。


5年後の俺。
落ち着いて聞いて欲しい、もしくは、何を当たり前の事を言っているんだと笑って欲しい。
俺には、異世界から来たアストラルと言う相棒がいる。
俺以外には数人にしか見えないし話せないし、幽霊みたいなやつだ。
でも、ちゃんとここにいる。
ナンバーズって言う100枚のカードを集めるためにいて、今50枚くらいあつまったから後半分だ。きっと5年後には集まって、アストラルはもう、俺の傍にいないと思う。
でも、全部集まったらどうなるかなんて聞いてないから、もしかしたら傍にいるんだろうか?
俺は、アストラルが好きだ。
友達じゃなくて、もっと特別な意味で。
俺は、闘う力を得るために不思議でグロテスクな扉と契約した。
扉は「一番大事なものを引き換えに」力を与えると言っていた。
俺にとって一番大事なものはアストラルだから、もしかしたら5年後にはアストラルがいた記憶もなくなっているのかもしれないって思った。
「君には願いはないのか?私にかなえられる事なら」て言うアストラルに
俺は、この身体にお前の痕が欲しい、そう答えた。
触れもしないのに、おかしいだろう?
でも本当に欲しかったんだ。
未来の俺。
今の俺は、これだけが知りたい。
俺の身体には、アストラルの痕があるんだろうか?
本当の意味で、俺はアストラルに触れたんだろうか?
触れなくてもいい、アストラルが傍にいなくなっても、俺はアストラルのことを覚えていられるんだろうか?
もし、アストラルがいなくて、アストラルのことも忘れてしまっていたら、どうか自分の中に探して欲しい。
自分だけで手に入れたんじゃない力がきっとあるはずだから。
アストラルがくれたもの、アストラルがくれた知識、アストラルがくれた想い、アストラルがくれた、何か。
きっとあるはずだから。
未来の俺。
お前の傍にアストラルがいてもいなくても、お願いだ。
俺がたくさんのアストラルを覚えておくから、お願いだから、お前の中にいるアストラルを探してくれ。



 手紙は、アストラルには見せなかった。
 そっと封をして提出した。
 どんな不思議な力が自分たちを引き裂いても、あの手紙は五年後の自分に渡るだろう。
『遊馬?どうした』
「なんでもない」
 考えすぎなのかもしれない。
 でも漠然とした不安は消えない。


 だから俺は今日もお前に願う。



 俺にお前の痕を残して。








アス遊アンソロに寄稿予定でしたが
最初からカピカピ精液はないわ、とボツっていたものを救済
(130526)





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