外がとっぷりと闇に浸かった頃に帰ってきた私は制服のままうつ伏せに畳に倒れこんだ。呼吸をする度藺草の香りが肺を占める感覚が、最近好きになってきていた。
「つかれたよぉ〜」
「おかえり、主さん」
「ただいまぁ…」
今日の近侍は堀川くんだっけ。部屋に入ってきた彼は投げ出された年季の入ったスクールバックを部屋の隅に寄せて私の側に正座した。
ただいまとは言ったけれど私の帰る場所はここではない。審神者というお仕事はしているけど私にはちゃんとお父さんとお母さんのいる家があって、学校にも行っていてバイトもしている。二足ならぬ三足の草鞋。いつも学校やバイト終わりにこの本丸に来て仕事をして、寝る前になったら転送装置で自分の部屋に帰るのだ。それがどれだけハードなことか。
「ほっぺに畳の跡ついちゃいますよ」
「んん…だるい」
「最近連勤続きですね、ばいと」
「お金欲しいからねー。来月は友達と映画行ったりご飯行ったり、予定詰まってるから」
「…あ、ご飯食べました?」
「まだ!今日なに?」
「オムライスです、主さん好きでしょ?」
「うんうん!好き!」
堀川くんはちょっと待っててくださいねって笑ってご飯を取りに行ってくれた。その間に昼間遠征に出していた部隊の隊長を呼び出して順番に報告してもらう。うん、今日も全隊大成功。昨日睡魔に耐えて桜付けした甲斐があった。そして昼間たっぷり休んでもらっていた第一部隊を戦場へ。血の気の多い何人かは待ち兼ねていたかのように目をギラギラ光らせて出陣して行った。頼もしい限りである。
「主さんお待たせ。もうお仕事してたんですか?」
「うん。時間もったいないからねー」
「んー、主さん頑張りすぎるから…。心配だなぁ…」
「だいじょーぶだいじょーぶー!堀川くんの美味しいご飯食べたらすぐ回復しちゃうから!」
ふわふわとろとろのオムライスに元気が出るのは本当。実は堀川くんのご飯が食べたいがために空腹を我慢して何も食べずにここに来てるというのもあるくらいだ。私の雑談に付き合う堀川くんは最後の一口を食道に流し込むまで聖母のような笑みを湛えていた。
堀川くんが食器を下げてくれた後、日課をこなすための出陣遠征出迎えの繰り返しが始まる。皆が帰ってくるまでは提出課題を終わらせたり報告書を認めたり鞄に明日の教科書を詰めたり、私も私でやることがある。眠たくなる前にやるべきことを全部やってしまわないと明日の私が泣きを見るから。私はクラスで一番忙しい、一番頑張ってるよ!と自分を励ましてつつ手を動かすのである。まじで丸一日お休みしたい。
いつもと同じ作業を終わらせ、脳死周回に入って数時間したところでとうとう睡魔がやってきた。瞼が重い。しかし日課があと一つ達成されていない。ここで眠るわけにはいかないのだ。
「ねぇ、主さん。もう休んだらどうですか?明日も学校でしょ」
「そうなんだけど…検非違使あと一回切れば日課達成だから…」
「第一部隊の皆さんも主さんのこと心配してましたよ。無理せず休んでほしいって」
「んー…わかった。2時まで」
「もう…。今日はここで寝ますか?」
「ううん、明日の朝バタバタしちゃうから。ちゃんと帰るよ」
その時ゾクリと、全身の毛が逆立つような恐怖を覚えた。ペンを持つ手があり得ないほど汗ばみ、その上変に力が入っていて開くことができない。畏怖の対象に向けている背中も冷たい汗が吹き出している。その対象こそ私が文机に向かっている間ずっと後ろで待機してくれていた堀川くんその人だった。堀川くんはいつも優しくてとってもいい子なのに。何故私は今こんなにも彼を恐ろしく感じているのだろう。
「どうして辛いことばかり溢れてる場所に戻ろうとするんですか?」
「っえ…」
毎日毎日学校という所で必要のない知識を強制的に学ばされているんでしょう?主さんはもう審神者という立派なお仕事に就いてるのに。教師なんて奴らより何倍も、ううん、何十倍も立派なんですよ?それにばいとだなんて。お金が必要ならこの本丸で暮らせばいいんですよ。ここのお金はこの世界でしか使えないけれど、娯楽だって甘味だって好きなだけ楽しめますよ。そうですよ、ここで生きていきましょうよ!もうあっちには戻らなくてもいいでしょう?ここの皆は主さんのことが大好きだし、誰も貴女を傷つけない。ね?だから帰るだなんて言わないで。終始楽し気に語る堀川くんの目は私しか映しておらず、その目元は全く笑っていないくせに釣り上がる口角がいやに不気味だった。いつもお疲れ様と笑って労ってくれる彼はもういない。もしかしたら最初からそんな人はいなくて、ずっとずっと腹の底ではこんな恐ろしいことを考えながら私に甘い飴を差し出し続けていたのかもしれない。
「堀川くん、それ、本気?いつもそんなことを…」
「主さんにとって一番の幸せを考えた結果ですよ?僕、主さん大好きだから」
耳元で私の安寧の地が崩れる、乾いた音がした。


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