最近女を拾った。いや、拾ったというのは少々語弊がある。深夜にも関わらず街を徘徊していた愚鈍な旅行者の女を気紛れで攫ったのだ。帝王たるこのDIOに心酔し自ら生き血を捧げる女達にこの所飽き飽きしていたし、変わらぬ日々に刺激が欲しかった。怯え慄き泣き喚きながら命乞いをしてくるか、将又己の矮小さを意に介さず果敢に抵抗してくるか。女の反応を楽しみにしていたがそいつは私の予想を裏切り、有ろうことか帰さぬつもりなら此処に住まわせろ、身勝手に攫って来たのだから責任を取れと言い放った。自分の置かれている状況も把握できぬ程の阿呆かと思ったが、それの瞳は聡明な光を宿していたし、何より珍しい物に私の心が惹かれていた。
飽きれば殺せばいいのだ。私はこいつを此処に置くことにした。

ある日そいつの物を取った。
「DIOー私の人形は?」
「知らん、私に聞くな」
「えー、でもDIOが部屋に来るまであったんだよ。取ったでしょ?」
「このDIOがそんなもの取ると思うのか」
「そんなもの…?口を慎み給えよ!あれはテレンスが嫌々作ってくれたテレンス君人形なのだよ!」
「口を慎むのは貴様の方だ。このDIOを呼び捨てにするな、敬語を使え」
「ンだが断るッ」
私は見誤ったのかもしれない。
あの提案は肝が座った賢い駆け引きなどではなく、ただの愚者の戯言だったのではないのか?館に来てからのこいつといえば危機感も持たず誰彼構わず遊び相手にし、今の生活を深く考えず気儘に楽しんでいるように見える。加えてこの態度、このDIOに魅了されないとはどういうことだ。
「ねーえー、DIODIO、DIOちゃーん。返してー」
「嫌だ、その生意気な態度が気に食わん」
「ほら!やっぱり取ってんじゃん!かーえーしーてー!」
「それ以上ひつこくするとあの人形の頭をもぐぞ」
ベッドで横になる私の腕をぐいぐいと引っ張っていたひよ子の動きがぴたりと止まった。恨めしそうに鋭く睨み付けてくるが、如何せん眉が情けなく下がっているので迫力など微塵もない。
「…じゃあいつ返してくれるの?」
「さあな、一生返さぬかもしれんなァ」
「…泥棒」
「そんなに壊して欲しいのか」
ぐっと押し黙った後、何やら呻きながら俯いてしまった。暫くしてからこちらを向いた瞳は悔しさからか平時よりも些か潤んでいる。
「…じゃあもういい、その子DIOに…あげる、から大事にして」
とてもじゃあないが好意的な声には聞こえない。絞り出すように言い切ったひよ子は色が白くなるほど唇を噛んで部屋を出て行った。自分の物を諦めて他人に譲るところが遠い記憶の中の誰かと重なる。こんな玩具をいたく気に入っているところや、あの人間に媚び諂う動物のように直ぐに感情が表立つところからしてあいつは少し幼稚すぎるんじゃあないか 。執事を模して精巧に作られた人形を眺めていると、廊下から優秀な彼の名を呼ぶ水気を含んだ声が聞こえた。

今日そいつの邪魔をした。ダイニングルームに足を運ぶとひよ子が一人黙々と食事をとっていた。
「あ、DIOー」
「ン?シチューか」
「そう!食べたい食べたい言ってたらテレンスが作ってくれた」
「…あまりテレンスを扱き使ってやるな」
「でも楽しそうだったよ」
世話好きなテレンスは余程ひよ子に毒されているらしい。私が隣の椅子に腰を降ろすのを、スプーンを食んだままのひよ子が歯をがちがちと噛み合せてそれを揺らしながら見ていた。
「作法がなってないな」
汚く食い散らかす若かりしジョジョが想起されて僅かに眉根が寄るのがわかった。
ジョジョ?
そうか、以前から誰かに似ていると思っていたがこいつはあの憎たらしいジョジョに似ているな。人間を見分ける点で重要な容姿や性分は全くもって異なるはずなのに、どこか重なるところがあるのだ。誠に不可解である。
「DIOもシチュー食べる?おいピーですよン」
「おい、口に物を入れて喋るな」
「おかんかよ。あのねー、これジャガイモ入ってるでしょ、これ。これ昨日私とダンとラバーソールで買いに行ったの」
「話を聞け」
「マミーはジャガイモお好き?」
「こんな行儀の悪い娘はいらん」
品性の欠片も感じさせぬような笑い声をあげてから悪びれもなく食事を再開させようとしたので、シチューを掬ったところで時を止めてやった。今まさにひよ子の口に入らんとしているシチューをこのDIOの口内に含み、数回咀嚼して喉から胃に流し込んだところで時を動かす。何も気付かぬひよ子が流れる動作で役割を果たし終えたスプーンを口に運ぶと、なんとも虚しいくぐもった金属音が聞こえた。
「ん?んん…ん…?」
「どうした?」
「んー、いや…別に…」
テーブル、足元、それからスプーンを順に確認してから怪訝そうに首を捻っている。私の能力を把握しているくせに何故分からんのだ。一頻り小さな脳を回転させたものの正しい答えに辿り着かなかった様子のひよ子は、諦めたように新たに白を一口分掬い上げ口を開ける。
がちん。しゅくしゅくとブロッコリーを噛み砕く。
がちん。今度はとろりとした人参が口内で甘さを広げる。
がちん。ようやっとひよ子が買い出しに行ったというジャガイモが回ってきた。
推理力に乏しいひよ子は眉間に深く皺を刻み込み、スプーンをくるりくるりと回して睨みつけるように注視している。
「…スプーン穴空いてる?」
「ひよ子よ、お前頭は大丈夫か」
「だっておかしいよ。おかしいよ!DIOスタンド使った?」
「ほう、漸く気付いたか」
「……………」
「……………」
「DIOちゃん私のこの表情、どういう気持ちの現れだと思う」
「こんなちゃちな悪戯にも気づけず情けない、一層の事命を絶とう、だな」
「馬鹿か、ちげーよ。夜の帝王とも有ろう男が何しょうもないことしてんだって顔ですよ」
次食べたら怒るから、ときつく言い放ち今度こそ食べることに専念し始めたひよ子を大人しく観察する。それほど容量が有るわけでもないのに欲張ってこれでもかと言う程一口を大きくするものだから、頬が膨らみ小動物のようになっているではないか。咀嚼に合わせて形を変える頬に指の腹を押し付け見た目にそぐわず柔らかなそれを強弱をつけて弄ぶと、今度はきちんと口内を空にしてから非難の声が上がった。
「もー、なんなのよう。邪魔ばっかり」
「不細工な顔を晒していたからついな」
「…食べてる間一緒にいてくれて嬉しかったけどもうDIOとはご飯食べないご馳走様でした!」
深く息を吸ってから一息で荒々しく言い切ったひよ子が派手な音を立てて席を立つ。憤慨しているにも関わらず律儀に食器を片して出て行く姿に、込み上げる笑いを抑え切れなかった。
「テレンス、美味かったぞ」
「はあ…お褒め頂き恐縮です。それはそうとDIO様、僭越ながら申し上げますがあまりお巫山戯が過ぎますと嫌われてしまいますよ」
「そうか?」
「そんなことはないと思いますが。むしろガンガン行きましょう」
「貴方はお黙りなさい」
去って行く背中を見届けてから徐に呼びかけるとキッチンから静かに様子を伺っていた執事と、何処からか現れた忠実な部下が側まで寄ってきた。執事はそうでもないが、可愛い部下はあいつが気に入らないらしい。
「スタンド使いでもないあの女のどこをお気に召したのです?…何故置いているんですか」
「そう悲しげな顔をするなヴァニラ。私も何故あいつを置いておきたいのか分からんのだ。お前達は分かるか?」
軽く投げた言葉だったがテレンスとヴァニラはちらりと顔を見合わせてからそれぞれ口元に手をやったり、腕を組んだりして真摯に考え込んでしまった。男三人で小難しい顔をしながら首を捻っている絵面はちっとも華がない。
「一度…消してみればいいのでは。何か分かるかもしれません。大切なことは失ってから気付くといいます」
「貴方ねぇ…それは後悔の意を表す言葉でしょうが。安直な考えで行動すると取り返しのつかないことになるんですよ。いいですかDIO様、呉々も今言ったことは実行しないように。…DIO様?」
「もう行ってしまわれた」
なくなったらその時はその時だ。
この世を統べようとしている私が理解できぬことなど、あってはならないのだ。確かめて明瞭にさせるに越したことはない。
私が与えたひよ子の自室に行くと、そいつはだらしなくベッドに仰向けに寝転びながら本を読む片手間に、大方キッチンから取ってきたであろう菓子を食っていた。こいつは食ってばかりなのか。
「なあに?」
先程立腹していたことなど忘れたかのようけろりとしているひよ子が無邪気な二つの眸子を此方に向けてくる。ゆったりとひよ子に近付いてベッドに乗り上げると、私の体重を受けたそれがきしりと鳴いた。不思議そうに見つめてくるひよ子の頬に掌を添え、口元に僅かに付着していた栄養分になり損ねた菓子の残骸を、親指で少し乱暴に拭う。
「DIO?」
其の儘顎の輪郭をなぞり、一定のリズムで脈を打つ白い首筋まで滑らせたところで上から押し付けるように掌に力を込めると、空気が急速に抜けるような乾いた音がひよ子の喉から漏れた。瞠目した後、動揺と混乱の色に揺れていた瞳は忽ち涙に深く溺れ、目視などできていないはずなのにそれでも私の冷えた相を只管に見上げ続けていた。
「死ぬのか」
はくはくと酸素を求めて開閉する唇はあ、だとかう、だとかの意味の詰まっていない母音を紡いだ。完全に酸素が尽きるまで待つのもいいし、あとほんのちょっぴりだけ力を加えて頸椎を折ってしまうのもいいかもしれない。喘げば喘ぐほど苦しさがじりじりと身体を侵食して行くというのに、ひよ子は一向に静かにならない。あんまりにも煩いから止まない喃語に耳を傾けてやると、意味のない唯の音だと思っていたそれはDIO、DIOと私の名前をか細く、切なげに繰り返していた。
鬱血した酷い顔で最期に呼ぶのが、選りに選って自分の命を奪わんとしている者の名だなんて、こいつは何を考えているのだ。呆れから気を削がれて5本の指の力を緩めると、ひゅうっと急激に酸素を取り込んだひよ子の気管が耐え切れずに悲鳴を上げた。激しく咳き込む丸まった背中を尻目に、自室に戻る。
何故だか酷く気が重い。今は唯、何も考えずにシーツに包まり深く眠ってしまいたかった。

その日私は夢をみた。
静寂が支配する、まるで私が幾星霜も眠っていた深海のような仄暗く閑散とした場所に奴は居た。
「女の子にあんな酷いことしちゃ駄目だよ、ディオ」
「何の用だ、ジョジョ。夢にまででしゃばってきてまさか楽しくお喋りしようってんじゃあないよなァ」
「相変わらずだね、君は。僕は唯、君の悩みを解決しにきただけだよ」
眉を少し下げて人懐っこく虫唾が走るような笑顔を浮かべたジョジョの口振りは、まるで全てを悟っているかのようだった。俺ですら理解できていないというのに、半身とは言え死んだお前に何が分かると言うのだ。
「あのね、君が彼女を手放せないのは愛してるからだよ。頑固な君のことだから信じないだろうけど、君が彼女に持っている感情こそ愛なんだ」
「はあ?何を言っているんだ?脳がふやけたんじゃあないのか?」
「よく考えてみてよ、必要以上にちょっかいを出しに行くのはこっちを見て欲しいからだ。君は昔からそうだからね、好きな子ほどいじめたいってやつさ」
その得意気な顔に思い切り舌打ちをしてやりたい気分だ。じとりと睨みつけてやると、ジョジョは苦笑して溜息をついた。
「彼女が好きだろう?」
「フン、そんなわけないだろ」
「素直になりなよ、彼女が死んじゃいそうで怖かったでしょ?あんなに悲しそうな顔してたくせに」
「…うるさいマヌケ」
「ふふ。僕と彼女は君がどれだけ最低でもね、どうしようもなく君が好きなのさ。だから僕らは似てるんだ」
ジョジョはこんなに聡い奴だっただろうか。心中を見透かされる居心地の悪さに目線を落としているとディオ、とジョジョが俺の意識を自身に向けさせた。
「さ、彼女が待ってるよ」
それだけ言ってジョジョはごぼりと泡になり、上へ上へと揺蕩いながら消えていった。やはり此処は海底だったのだ。待っている、と言われたところで起き方なぞ分かるはずもないのでジョジョが消えた後もぼんやりと頭上を見上げていると何かが部屋に侵入してくる気配を感じ、思ったより容易に意識が覚醒した。
魚が釣り針に捕まった時というのはこんな感じなのかもしれない、とまだ靄が晴れきっていない頭で考えながら瞼を持ち上げると、小さな背中が物音を立てぬよう慎重に慎重に重い扉を閉めているところだった。時間をかけてゆっくりと金属音を鳴らした後此方に振り返ったひよ子は大袈裟に固まり、血相を変えて足早に駆け寄ってきた。私が起きていたことがそんなにまずかったのだろうかと不思議に思ったが、ひよ子の心をさざめかせる原因は其れではなかったらしい。
「ごめんね。あの、だから、泣かないで、DIO」
泣いてなどいない、という科白は吐き出されることなく死んだ。私の涙腺は大凡百年振りに締まりを無くし、涙点に収まり切らなかった涙が一筋、確かに頬を濡らしていたのだ。あまりこういった感情は抱いたことがないのだが。
至って冷静に頬の軌跡を拭っている間も、眼前のひよ子は馬鹿の一つ覚え宜しく謝辞を述べ続け情けなく狼狽していた。
「何故お前が謝る」
「私、怒らせたと思って。…置いてもらってるのにDIOの言うこと全然聞かないから」
「お前は何もしていない」
「…よかった」
少し口角を持ち上げたひよ子は目を細めて心底安堵したように息を吐いた。気にしていたのなら一々噛みつかず従順に飼い慣らされていれば良いのに、難儀な奴だ。
丁度目線の高さに痛々しい手形の痣がくっきり残ってしまった首が晒されていて、思わず目を逸らした。
「どうして態々虐げられに来るんだ。私のことが嫌いだろう」
投げ掛けた声はなんというか、不覚にも少しばかり聞き分けのない幼子が愚図るような色が滲み出ていて、慌てて伏せた目をひよ子の方へ向けるとそいつは唇を半分と両の目を開けてじっと私を見ていた。私とそいつの呼吸と、瞼を瞬かせる動きだけが空気を揺らす唯一だった。
目を逸らしては負けである。
恐らくそれはほんの少しの間の出来事だったのだろうが、劣勢なこの私に齎された苦痛の感覚はそのたった数秒が10倍程にまで引き伸ばされたものだと思ってほしい。私だけが冷や汗をかいていた拮抗状態は、徐に私の頭を撫ぜ始めたひよ子の奇妙な行動によって破られた。暫くは好きなようにさせていたが、こいつは何も言わず繊細な手つきで以ってしてこのDIOを撫ぜ続けるばかりで全く意図が計り知れないので、痺れを切らして口を開いた。
「…なんだ」
「好きだよ。私DIO好き。あんな泣きそうな顔してたのに、嫌いになれるわけないでしょ。DIOも私のこと嫌いじゃあ、ないでしょ?」
不安そうに此方の反応を伺ってくるのはやめろ、心臓の辺りが熱く疼くようなおかしな感覚になるだろうが。未だ私の頭に乗ったままの華奢な手を掴んで下ろし、痛みを感じない程度に強く握る。
「…ひよ子、お前も人間やめてみるか」
「DIOが寂しくなくなるならいいよ」
さらりと笑って言って退けたひよ子に、私はもう堪らなくなってベッドに片膝だけ乗り上げていたそいつの細腰と背中にしっかりと両の腕を回しそのまま此方へ引き寄せるように抱き締めた。私のどくりどくりと血を供給する臓が喧しく働いている。
「…マヌケが」
私の名を呼ぶなんとも緩い声を無視して、ひよ子の髪が少し掛かった狭い肩に顔を埋める。今の私はきっと眉の下がった情けない顔をしているだろうから少し待て。ひよ子が歌うように何度も私を呼びながらまたゆるりと梳くように髪を撫ぜ始めたものだから、私のみっともない表情はもう暫くは直らないだろう。