翌朝、キリは迎えに来なかった。 自分で来るなと言っておきながら、椿は後悔の念に苛まれ、白いため息をポツリと吐く。 単純に嫉妬したのだ。 あの女子が自分の知らないキリの過去を知っていることに。 更に椿が慎重に触れようとした真っ赤な果実さえも目の前で横取りして、もう何がなんだか訳が分からなくなってしまったのだ。 キリが女生徒から人気があることは重々承知していたはずなのに、椿は込み上げる苛立ちを押さえることが出来ずに、あろうことかそれをキリにぶつけてしまったのだ。 (……僕は最低だ……) だが、来るなとは言ったものの、正直椿はキリが迎えに来ると思っていた。 子犬のような瞳を滲ませて、非などないのに謝ってくるだろうと。 だからこそ、ひとり分の軌跡が余計に虚しくて、突き刺さる現実がひどく痛かった。 (……生徒会が終わったら、ちゃんと僕から謝ろう) 昨日、何も言わずに背を向けた事も、椿はずっと後悔していた。 人として最低な振る舞いをしてしまったのだ。 挨拶のひとつもしないで人と別れるなんて初めてで、ずっとそれに胸を痛めていた。 今回、非があるのは全面的に自分だ。 椿は決意を胸に、真っ白な大地に足跡を刻んだ。 *** 『え……休み?』 『ええ。キリ君、本日はお休みだそうですよ』 『……何故?』 『風邪をひかれたそうです』 しかし、定例会議の時間になってもキリは現れなかった。 まさかこのまま辞める気なのかと椿はひどく焦り、そんなこと有り得ないとは思いつつ、揺れる心臓はとても正直に椿を攻め立てていた。 そしてあくまで平然を装い、キリはどうしたと尋ねると、丹生を通じて宇佐見がボソボソと答えてくれたのだ。 そして今、椿はキリの自宅へ赴いている。手には林檎と風邪薬。ひとり暮らしであるキリを配慮してだ。 喧嘩でもしたのかと女子3人に冷やかされ、興奮に頬を染めながらも、椿は尚も平然を装い会議の進行に努めた。 会議は特にこじれることもなく円滑に進み、何事もなく校内パトロールを経て今に至るが、椿は一貫として激しい自責の念にかられていた。 キリが体調を崩したのは自分のせいだと思ったのだ。 病は気からという言葉通り、きっと昨晩、キリは気持ちが弱ってしまったのだろう。 本当に昨日は寒かった。キリと別れた直後に降り出した雪がやたらと冷たくて、やけに白かったのを鮮明に覚えている。 常備している折り畳み傘を広げて雪を遮っても、依然としてハラハラと舞い散る雪は寒気を纏い、自分の真っ黒な感情を浄化していったようにも感じた。 キリは傘を持っていただろうか。 直ぐに自宅へ戻っただろうか。 しっかり体を暖めて、ちゃんとゆっくり眠っただろうか。 帰り道、そして自宅に着いてからも、気付けばそんなことばかり考えてしまっていて。 椿は息を吐く。淡く染まった息を。 それが示すことなんて、痛いくらいに分かっていたはずなのに。 (……寒い……) 両手に白を吹き掛けながら、椿は歩みを進める。 しばらくすると、ついにキリがひとりで暮らすアパートへ到着した。 高鳴る鼓動を抑え、震える指で呼び鈴を鳴らす。 数秒の間。 椿がキリ、と声をかけると、室内からバタンと大きな音が聞こえ、椿は思わずドアノブを捻った。 「キリ?……って開いてるじゃないか!」 何故か施錠されていない玄関に椿はただ唖然としつつ、恐る恐る室内を覗き込む。 室内を遮るドアは開いており、その先でキリがベッドの下に横たわっているのが見えた。 椿は慌ててキリの元へと駆け寄り、上半身を抱え上げて声をかける。 「キリ、大丈夫か?」 「かいちょう……」 玄関まで出迎えようとしてベッドから落ちてしまったのだろう。 先程の大きな音は恐らくそれによるものだ。 椿はキリを真っ直ぐに見つめる。 吐き出す息が真っ白で、瞳は涙ぐんでおり、頬と同様、林檎のような赤い色だ。 今すぐにでも泣き出してしまいそうなその表情に、何故か椿もつられて泣きそうになった。 「……暖かくしなければ駄目だろう……」 「すみませ……」 「本当に、君は……」 椿は胸が締め付けられ、1度キリをぎゅっと抱きしめた。 そしてそのままキリを抱き上げると、ベッドへ優しく寝かせた。 身長より差の少ないキリの体がやけに軽く感じ、無防備な表情と相まって、ひどく幼い印象を受ける。 それから椿は、それこそ世話焼きのように毛布と掛け布団を首までかけ、暖房のスイッチを入れた。 キリから場所を聞き、濡れタオルを2枚用意して、1枚は加湿用に室内に吊し、もう1枚はキリの額にそっと乗せる。 心地好い冷たさにキリの表情が一瞬和らぎ、椿は安堵の息を吐いた。 自宅が病院なだけあって、椿の行動は非常にそつがなかった。 流れるようにテキパキと事をこなす椿を見て、キリは得も言われぬ浮遊感に包まれる。 「キリ、熱は計ったか?」 「いいえ……」 「では薬は?そもそもご飯は食べたのか?」 「いいえ……」 「……」 問診のような椿の問いに、キリは同じ言葉を返す。 予想していたとはいえ、まさかの回答に椿は口を半開きにして固まり、キリを見やった。 「かいちょう……?」 その視線を受け、不思議そうにじっと椿を見つめるキリ。警戒心の薄れた、子犬のような眼差しだ。 唐突なその瞳に椿は思わず目を見開き、息をそっと吐いてから、優しい笑みを浮かべてキリを見据えた。 「かいちょう……?」 「台所を借りるぞ。熱も測れ」 「え……?むぐ」 キリの口に体温計を突っ込み、椿は台所へ向かった。そして息を吐く。 何でもいいから食事くらいはしておくべきだと注意するつもりが、結局叱れなかった。 あの瞳には本当に弱いなと、椿はどこか複雑な気持ちなる。 気持ちを切り替え、椿は持参した林檎を洗い始めた。 椿は不器用だ。だから林檎の皮を剥くことが出来ない。 残念なことにひたすら林檎を洗うしか出来ないのだ。 そして下ろし金で林檎をすり下ろし、終えた所で変色を防ぐために塩を入れた。 水と共にそれを持ってキリの元へ戻ると、サイドテーブルには体温計が置かれていて、椿は両手のものを置く代わりにそれを手に取り、表示された数字を確認した。 「38度2分……。明日も休みだ」 「そんな、おれ……あしたはいきま」 「あーん」 「……え?」 「キリ、あーん」 上体を起こして反論し始めたキリの言葉を遮るため、椿は林檎をスプーンで掬ってキリの口元に差し出した。 それが意味すること、まるで子供扱いのそれにキリは更に頬を染める。 チラっと椿を伺い、僅かな抵抗を試みるも、椿は食べなくてはいけないぞと、丸い瞳で一心に見つめてくるため、観念したキリは口を素直に開くしかなかった。 口の中にスプーンを入れられ、林檎のすっきりとした甘みが広がる。 すり下ろされているため、噛まなくてもそのまま喉を通っていった。 じわじわと、まるで胃の中に雪が降り積もるような感覚に、キリは真っ白なそれを思い浮かべる。 「美味しいか?」 「……はい」 キリは頷く。 しかし正直なところ、皮ごとすり下ろされた林檎の食感はザラザラで、あまり良いものではなかった。 更に塩の味も強く感じ、入れすぎていることが容易に窺え、林檎は確かに美味しかったが色々と気になる点もあることは否めなかった。 だが、キリにとって、それらはまるで問題なかった。 林檎に限らず、果物の大半は実と皮の間に栄養分が多く含まれているし、汗をかく身として塩分補給は最重要項目だ。 結果論ではあるけれど、椿の不器用さはいい方向に向かっている。 何て不器用なのだろうと、何て不器用に自分を想ってくれているのだろうと、キリは何だか泣きそうになった。 「……すみません。お手を煩わしてしまって……」 「え……?」 林檎を平らげ、薬を飲んだ所でキリは俯き、ボソッと呟いた。 風邪で弱り、落ち込んだその様子は違った意味で子犬のような印象だ。 そして紡がれた言葉。 それを聞いた椿はただ悔やんだ。 しまったと、先を越されてしまったと。 そして言わなければいけないと今朝から抱えていたそれを、自分も漸く口にすることが出来た。 「謝らなければならないのは僕の方だ」 「え……?」 「昨日はすまなかった。色々と嫉妬して、君に八つ当たりしてしまった」 思わぬ展開で謝辞を述べた椿に、キリは一瞬何のことだろうかと疑問符が浮かんだ。 しかし直ぐに昨日の出来事を思い出し、その興奮から林檎を更に深く染めた。 「そんな……、謝らな、で、くださ……」 「いや、昨日のは僕が悪いから……」 「いえ、そんなことっ、……そ、それに……」 「ん?」 「お、おれ……、昨日の、返事、まだ……んっ!」 キリはそこまで言いかけて息を詰まらせた。 布団を握り締めて苦しそうに咳込み始めたため、椿は慌ててキリの背中を撫で、咳がおさまるのと同時にキリを再度布団の中へと促し、濡れタオルを当て直す。 「無理するな」 「すみませ……」 「ちゃんと覚えていてくれたんだな。ありがとう」 「……はい」 まさかのギャルの登場で、すっかり有耶無耶になってしまった椿の告白。 椿は瞳を丸めていたが、キリにとってそれは絶対に忘れられるはずがなかった。 (……だって……) 椿を見つめるキリの視線が意味するもの。 悲しいことに、鈍感な椿は気付かない。 というより、キリ自身も気付いていなかったのだが、昨日の椿の告白によって気付かされてしまったのだ。 (……会長……) 無意識に、キリの眼差しは甘えを孕み、子犬のそれへと変わっていく。 その眼差しに気付いた椿は、最早条件反射のように頬を緩めてキリを見つめた。 「待っている」 「え……?」 「返事は今すぐでなくて良い。……そうだな、この風邪が治ったら、その時にちゃんと聞かせてくれ。それまでずっと、待っている」 「…………はい」 椿は微笑みを崩さぬまま、左手を伸ばしてキリの頬に触れ、そっと撫でた。 その瞬間、キリの林檎も同じようにふわりと深く染まっていく。 とてつもなく可愛らしいそれは椿の心を揺らし、そして脳裏に禁忌を犯したひとりの女性を浮かばせ、共鳴させた。 (……禁断の果実だ) 林檎を食べてしまったイヴ。 多分、彼女もこんな気持ちだったのだろう。 真っ赤な林檎は本当に美味しそうで、少しだけなら触ってみてもいいだろうかと、少しだけなら食べてみてもいいだろうかと、人の理性を容赦なく破壊して、誘惑するのだ。 今、椿の脳は目の前の林檎で一杯だ。 更には可愛らしい子犬の瞳のおまけ付き。 待つとは言ったものの、目の前の想い人は禁忌を犯したくなる程に愛しくて、愛くるしい。 「……ん?」 椿の心がざわめく傍ら、キリの瞳がゆっくりと塞がれていった。 恐らく先程の風邪薬の効果だろう。 椿は安堵の息を吐く。だが、左手を離すことは出来なかった。 (……もう少しだけ) 触れてしまった子犬の林檎。 想像以上に柔らかくて、想像以上に熱かった。 熱いのは熱のせいではあるのだろうけど、ただ、熱いそれは椿の枷を簡単に溶かしてしまって。 椿はキリを見つめる。呼吸に合わせて揺れる体。 布団の隙間から覗く、汗の滲んだ首の輪郭がとても艶かしくて。 (……これも、キリの林檎) 椿は生唾を飲む。 歯を食いしばって欲を払うも、最早椿の理性は崩壊寸前だ。 触れた次には味見がしたい。 味見をしたなら食べちゃいたい。 高鳴る鼓動が鳴りやまず、触れる林檎がただ熱い。 → |