※5000hit記念企画。 ※やっぱり出てくるモブ。 子犬の林檎 一段と厳しさを増すばかりの真冬日。椿とキリはお互いに寄り添うようにして家路についていた。 全身に突き刺さる北風が寒いを通り越して最早痛い。 ふたりの頬は林檎のように真っ赤に染まり、吐き出す吐息は雪のように淡く白い姿を見せている。 「流石に寒いな……」 「はい……」 あまりの寒さに自然と口数が減り、口を開いたとしても同じことしか話さない。 むしろ同じことしか話せないという方が正しいのだろう。 冷たい空気がふたりの脳から爪先までを包み込み、容赦なく攻撃を仕掛けているからだ。 「こんなに寒いなんて想定外だな」 「同感です……」 「はぁ、寒い……」 ふたりは魔法が使えたらいいのにと、現実逃避とも取れる願いを抱いた。 魔法をかけて、暖気を手に出来ないものかと。 凍りそうな指先に柔らかく息を吹き掛けたり、熱を失った耳たぶに触れてみたり、一瞬の温もりを地道に集めてみるものの、結局それは気休めにしかならなくて。 だがそこへ、まるで見計らったかのように、とある誘惑がふたりの視界に飛び込んできた。 「……」 「……会長」 「だ、駄目だ、下校時の買い食いなど……!」 「買うだけでも、駄目でしょうか?」 ポツンと佇む自動販売機。 余り需要のなさそうな冷たい飲み物と、求めて止まない温もりを持った飲み物が無人で売られている。 柔らかな光を持ってそれはふたりを照らし、暖かな世界へ引きずりこもうと無言で魔法をかける。 キリは早くもその魔法にかかり、子犬のような瞳で椿を見た。 (……うっ……) 椿はたじろぐ。 椿はキリのこの瞳に弱かった。 普段は背伸びをして、それこそ狼のような眼光で近づくものを威嚇しているキリだが、 最近になって、椿の前で時折、警戒心が解かれたような無防備な瞳を見せる事が増えたのだ。 それが今のキリの眼差し。 年相応に甘えているみたいで、とにかく可愛いのだ。 余りに可愛い過ぎて、だから椿はこの瞳を向けられる度に、ついキリのことを甘やかしてしまう。 いい加減このままではいかんと、椿は1度、キリにその目はずるいぞとたしなめた事があった。 しかしキリは全く自覚がないようで、疑問符を浮かべて首をコテンと傾けたため、たしなめるはずが、椿はその仕種に鼻から血を流しかけてしまったという恥ずかしいエピソードさえ存在する。 「…………買うだけだぞ」 そして今回も例に漏れず、結局キリの瞳に負けた椿はキリの申し出を承諾した。 椿の了承にキリは嬉しそうに表情を変える。 子犬の瞳から無垢な笑顔へのコンボ、更にそれらと林檎のほっぺの相乗効果は抜群で、椿は胸中でひたすら悶えた。 駄目だ、可愛い、可愛い過ぎて胸が苦しい。 ときめきと優越感、そして同じくらいの切なさが同時に椿を襲った。 キリがこんな表情を見せるのも、キリのこんな表情を知っているのも、きっと自分だけだ。 会長、主君であると言うのは何て素晴らしい特権なのだろう。 そして何て辛く、何て切ない立場なのだろう。 あの子犬の林檎はいつか、誰かのものになってしまうのだろうかと。 というのも、最近のキリはモテるのだ。歩けば誰かが振り返る。 だから、キリの傍にいる事の多い椿は、キリへ熱い視線を向ける女生徒達を常に敵対心剥き出しで見ていた。 君達には負けないぞ、キリは自分が独り占めするのだと。 キリは容姿端麗で、運動神経も抜群だ。 少し口は悪いけれど、ちゃんと人の痛みの分かる優しい子で。 態度と優しさとのギャップが素敵だと、女生徒からじわじわと人気を博し始めており、前庶務の仕事だけでなく人気さえもしっかり引き継いだ。 キリ本人にその自覚は全くないけれど。 というより、元々奔放な性格のため、周りの目をあまり気にしていない。 変心前は言うまでもないが、椿に仕えるようになってからも、キリは学園内を独自のルートで移動したり、木の枝に腰掛けてゆらゆらと風に揺られていたり、ありのままに生きている。 他人の視線、それに含まれる様々な感情など全く興味なさそうだ。 そんなキリだが、自分がしたいと思った事は結構頑なにその我を通そうとする一面もある。 お茶を買ってくるだの、護衛するだの、世話焼きのように椿の傍に居ては、嬉しそうに瞳を輝かせて。 ずるいよなと、椿は頬を緩め、真っ白な息を吐いた。 傍らで想いを寄せているだけなのに、自分は掻き乱されてばっかりだ。 以前は鋭く、それこそ狼のように牙を剥き、殺伐とした空気に包まれていたのに、 今は根っこにある優しさが少しずつ彼を包み始めていて、目つきも表情も大分柔らかいものになった。 それが子犬へと変貌するなんて、一体誰が想像出来ただろうか。 (……でも、それを知っているのは、きっと僕だけだ……) ふたりきりになるとたまに見られるキリの瞳。 椿はもう余計なことは考えず、その幸福感に酔いしれることにした。 「……かいちょ」 そして椿が尚心地好いそれに浸っていると、 ふいに現実へと呼び戻すかのように、林檎へ暖かな無機物が触れた。 「むっ?」 「ぼーっとしてましたよ。ほっぺが真っ赤で、可愛いらしいです」 椿の目の前には悪戯っ子のような笑みを浮かべたキリが居て、 椿の左頬に購入したばかりの缶を押し当てていた。 (……いかん……) ほっぺが真っ赤なのは君もだろうと言いかけて、椿は黙った。 目の前のキリが可愛いらし過ぎたのだ。 キリの周りを白い吐息が包み込んで、まるで触れたら溶けてしまいそうな、そんな儚げな愛しさが広がっていて。 動揺を悟られぬようにキリの手から缶を受け取るも、微かに触れ合った指先が甘酸っぱいほどにくすぐったくて。 (……これは……とんでもなく好きだな……) 椿は葛藤した。 言っては駄目だろうか。 誰かに取られる前に、この気持ちをキリに伝えては駄目だろうかと。 左手に触れる温もりだけがやけにリアルで、椿の視線はキリの林檎へ向けられたまま。 欲しい、触れたい、食べてみたい。いけないことだと分かっていながらも、椿は林檎から視線を逸らせない。 次第に背徳感が不思議な興奮を呼び起こす。 少しだけなら良いだろうか。ほんの少しだけ林檎に触れて、本当にほんの少しだけ、味見をしてみても。 「キリ……」 「はい?」 椿の気持ちは心を飛び越え、真っ赤な林檎を揺るがせた。 「好きだ」 「え……?」 キリの目を真っ直ぐ見つめて、椿は想いを告げた。 真っ白なそれは一直線にキリの元へ届き、キリは余りに唐突な展開に顔を呆けさせる。 「え…………か、い、ちょ、それっ……て……」 「……ん?」 「その……」 椿は視線を逸らすことなくキリを見つめており、キリは照れから林檎を更に染めた。 それを隠すかのようにキリは手元の缶に視線を移し、落ち着かない様子で両手をもじもじとさせている。 こんな姿初めて見たなと、椿は何処か冷静な気持ちでキリの言葉を待っていた。 「……っ……」 そして耳まで真っ赤になったキリが、意を決したように顔をあげ、口を開いた。 「かいちょ……」 「あれぇー?もしかしてキリ君じゃない?」 だがその瞬間、甲高い声がキリの言葉を裂いた。 ふたりは驚愕しつつ、声の聞こえた方へ視線を向ける。 そこには顔の原形が分からなくなる程の化粧をしたギャルが居て、一直線にキリへと歩み寄っていた。 「やだぁ、やっぱりキリ君だぁ。久しぶりー、元気ぃ?てゆーかやっぱイケメンだよねー、背も伸びたぁ?」 「キリ、友人か?」 「……」 「ちょっとぉ!何で黙るのぉ!もしかして感動の再会に感激しちゃったとかぁ?チョー可愛いー」 椿の問いにキリは黙る。 語尾を伸ばした特徴的な喋り方をする彼女を、キリはまぶたをのんびりとした速度で動かしながら見つめていた。 「……アンタ誰だ?」 「え?」 「はぁ!?ちょっとそれマジ酷くない!?」 だが親しげに話し掛けてくる彼女とは対称的に、キリは眉間にしわを寄せて疑問符を浮かべた。 眼差しは訝し気なものに変わっており、椿は再度彼女に視線を向ける。 「覚えてないとかウケるんだけどぉ。ほらぁ、1、2年くらい前にさぁ、アタシ逆ナンしたじゃん、キリ君のこと。それから高校入るまでずっとアタックしてたんだけどぉ。マジで覚えてないのぉ?」 「……はあ?」 「ひどーい。でもまぁしょーがないかー。あんときのキリ君、チョー荒んでたもんねぇ。全然相手にしてくれなかったしぃ」 まあイケメンだから何でもいいけどー、と、彼女はクスクスと何とも可愛いらしい笑い声をあげてキリに微笑みかけた。 しかし、キリはその話題にあからさまに表情を変え、鋭い目つきで彼女を睨みつける。 「オイてめぇ……会長の前でその頃の話すんじゃねぇよ」 「やだー。キリ君こわーい。そんなに怒んないでよー、せっかく会えたってゆーのにさぁ」 「アンタと親しくするつもりなんか微塵もねぇ」 「そんな事言わないでよぉ、さーみーしーいー。アタシはキリ君に会えてチョー嬉しいのにぃ」 普通なら怯んでしまう程の、狼のようなキリの眼光。 椿の表情も険しいものに変わっている。 だがそれらに臆することなく彼女はキリに詰め寄り、何とキリの左腕に自分のそれを絡ませた。 「オ、オイ!離せ!」 「ねーえ?今度は一緒にあそぼぉ?アタシもキリ君も結構おっきくなったと思うしぃ」 「あぁ!?」 「ココだよぉ」 囁きながら、彼女は自身の胸をキリの腕に押し付け、至極自然な流れでキリの太ももをサラッと撫でた。 「テメッ……!」 「キリ君ならアタシいつでも大歓迎だからぁ。優しくしてねー。それじゃあキリ君、またねぇー」 そしてちゅっとキリの左頬にキスを残し、最後まで笑みを崩さぬまま、彼女は強い北風と共に去っていった。 ふたりを包んでいた空気が一変する。 言わずもがな、ふたりの間に訪れたのは沈黙だ。 その気まずさにキリは何か言わなければと必死で言葉を探すも、椿はその時間を与えてはくれなかった。 強い北風が吹き抜けた後、間髪入れずにバキッと、何かか潰れる音がしたのだ。 「……か、かいちょ……?」 キリがその方向へ視線を向けると、原形を失った缶が椿の左手に握りしめられていた。 未開封のために、一滴も減っていなかった缶の中身が次々と地面へこぼれ落ちている。 それらが示している椿の心情が、寒気とは比べものにならない程にキリの全身へ突き刺さり、こちらを見向きもしない椿にキリは言葉を失い、声をかけられないまま椿を見つめていた。 「……帰る。ここまででいい」 「っ……そ、それでは、またあした、おむかえに」 「来なくていい」 「えっ……」 沈黙を破った椿の言葉にキリは声を搾り出すも、椿はそれを容赦なく掻き消した。 別れの言葉も言わないままキリに背中を向け、心なしか早足でキリの元から去っていく。 あっという間に、椿の背中は見えなくなってしまった。 先程までの甘い空気は跡形もなく消え去っていて、呆然とするキリの瞳からは大粒の涙が零れだす。 そのまま嗚咽を始めたキリの吐息が瞬く間に白く染まった。 とぼとぼと踵を返したキリの足元には、いつの間に降り出していたのか真っ白な雪が。 少し大きめのそれは刹那の内に大地を白く染め、ひとり分の軌跡を浮き彫りにする。 その軌跡の始まりでは、温もりをなくした水溜まりが降り注ぐ雪を無言で溶かしていた。 北風に流れる、拭いきれなかったキリの涙と共に。 → |