※最初だけ下品。
※エロス的な意味ではない。


涙の約束


皮張りのソファーの上にボッスンが沈んでいた。
背もたれに背中を預け、右側を下にした胎児のような体勢で。そして、彼の心情も然り。
呆然と一点を見つめながら口を半開きにしている。


『ボッスン、平気か?大分飲まされていたが』
「おれ……、ウンコだから…………」
『そうか』
「…………ぅぅ……」


スイッチの気遣いにボッスンは幼稚な言葉を返す。
そして悲しげに眉尻を下げると、瞳からは粒の涙が、開いたままの唇からはか細い声がこぼれ落ちた。


「さすけぇ…………」


またか、と、スイッチはボッスンを見つめながら、ため息をひとつ吐いた。

ボッスンは酔い潰れると決まって弟の名前を呼んだ。
双子の弟である椿の名を。というよりも、呼ばない日などなかった。

双子であるものの、諸事情によって離れ離れになっていたふたり。
その空白を埋めるように、ふたりは高校を卒業すると同居を始めた。
朝の光を浴びて共に目覚め、月明かりの中で共に眠る。
同じ体温を共有する自分の半身。
直ぐ傍にある片割れの温もりにふたりの心は安らぎ、満たされ、ただ愛しくて仕方なかった。
特にボッスンは、兄であるという自覚の元、過保護なまでに椿を愛した。
自分よりも少しだけ小さく、自分よりも少しだけ軽い体。そして真っ白と比喩するに相応しい程、幼く純な心。
自分が彼を守らなければ。兄として、彼をずっと守っていきたい。
同居を開始して初めて彼の寝顔を見たその瞬間、ボッスンの心にはそんな想いが芽生えていた。


「うっ……うっ……ひっく……」
『……』
「さすけぇ……。さすけにあいたいよぉ……」
『椿は自宅に居る。だから帰れば椿に会えるぞ』
「ううっ……かえれないよぉ……、あいたいんだもの……きもちわるいんだもの……ウンコなんだもの……。さすけぇ……、さすけぇ……ひっく、ひっく」
『呼ぼうか?』
「よんでぇ……おにいちゃんのことむかえにきてぇ……うっ、ひっく……うぁぁん……」
『呼んだ』


しかし、兄と言っても所詮は建前。双子であるがために、ふたりの成長に差などない。
むしろ双子らしいと言える程に、ふたりの気性は同一だった。
幼くて純なのはボッスンだって同じ。涙腺の決壊は彼の方が早い位だ。
日頃から些細な事で涙を浮かべるボッスンは、酔い潰れるとそれに拍車がかかる。
遂には顔を両手で覆って、しくしくと本格的に泣き始めてしまった。


「さすけぇ……さすけぇ……うっ……うっ……」
『直ぐに来るから』
「あいたいよぉ……さすけにあいたいよぉ……」
「おほっ、また泣いてんのか藤崎は」


そんな中、裏で帳簿の確認をしていた安形がフロアに姿を現した。
他のホストはアフター組と帰宅組に別れ、すっかり静まりかえっている店内。
ボッスンの泣き声はこの小さな室内にとてもよく反響していた。


「佐介佐介って、毎度毎度お前も飽きねぇな」
「だって好きなんだもの……。大好きなんだもの……。おれ、ウンコだけど……、さすけのことはたいせつにおもってるんだもの……ひっく」
「かっかっか。そうかそうか、ウンコでもちゃんと大切なものがあんだな」
『ウンコなりになw』
「ウンコなめんなよぉ……うぅっ……。うっ、ひっく……、きもちわるいよぉ……、あたまいたいよぉ…………、さすけにあいたいよぉ……」
「かっかっか。ウンコも大変だな」


露骨な単語を連発しているにも関わらず、下品さはボッスンの涙によって緩和されている。
最早恒例行事とも取れるようになった彼の泣き上戸っぷりは、周囲の人間に穏やかな笑いさえ生み出していた。


「うっ、うっ、ひっく……、きもちわるい……あたまいたい……」
「おいおい大丈夫か?ちゃんと水飲んだか?」
『たらふく飲ませた』
「……この様子じゃ酒薄まる前に涙になったか。かっかっか。ほんと、ウンコは大変だな」
『本当になwww』


泣き続けるボッスンを尻目に安形とスイッチは談笑を始める。
さして遠くないボッスン達のアパート。安形は時計を見やり、もうじきだな、と、呟いた。


「おらおら、もうちょいすりゃあ椿くっから。そろそろ泣き止んどけ」
「さすけぇ……さすけぇ……どこぉ?まだぁ……?」
「駄目だこりゃ」


ボッスンの胸は今、椿への恋しさに余すところなく支配されているのだろう。
それを悟った安形はそれ以上を囁くのを止め、ただ黙って椿が来るのを待ち続けた。

しかし、椿は中々来なかった。
スイッチがメールを送信した時間を確認し、いつもなら既に到着しているはずの頃合いにも関わらず、だ。


「……遅ぇな」


安形の胸に疑心が募る。何度も訪れているため、迷ったとは考えられない。
静かに過ぎていく時間の中、ボッスンの泣き声が依然として響き渡って、室内を湿らせていくばかりで。


「い、いたっ……!いたいっ!いたいっ……うでがいたいよぉっ……!うでがいたいよぉ……!」
「腕?スイッチ、今日コイツどっかぶつけたのか?」
『いや、見てた限りではそんな事ないが……』
「……いたいよぉっ……!いたいよぉっ……ひだりうでが……ひだりうでがいたいよぉ……ひっく……いたい、いたい……いたいぃ……うあぁ……うあぁん……」
「……とりあえず椿遅ぇし、ちょっと出るわ。藤崎頼んだ」
『了解』


そんな中、唐突にあがったボッスンの悲痛な声。
それに言われのない焦燥にかられた安形は、早足で街へと歩みを進めた。

フロアに残されたボッスンとスイッチ。
尚も左腕の痛みを訴えながら泣き続けるボッスンに、流石にスイッチにも不安が芽生える。

椿の身に何かあったのだろうか。
そもそもそれ以前に、営業中に何かあったのだろうかと。
スイッチは営業中、出来る限り目立つ位置に佇み、店内に目配りをしているが、それでも限界はある。
もしかしたら見落としていただけで、何処かにぶつけてしまっていたり、客に何かを強要されていたのかもしれない。
ボッスンに必要以上の無理をさせてしまったのかもしれない。

スイッチはそんな思慮のもと、ボッスンの傍へ音もなく歩み寄り、しゃがみ込んだ。
そして激しく高鳴る心臓を堪えながら、彼の左腕の袖をそっと捲る。そして息を飲んだ。


『……っ……!』
「ひっく、ひっく、いたいよぉ……、いたいよぉ……」


目の前の光景に言葉が止まる。そして込み上げたもの。
しばらく無言で左腕を見つめていたスイッチだったが、耐え切れない思いから、気付ば彼は全く呟く必要のない言葉を漏らしていた。


『……ツルッツルだなw』


晒されたのは絹のようなボッスンの素肌。
女性のように綺麗なままの彼の左腕にスイッチは嘲笑に似た笑みを浮かべ、杞憂にそっと安堵し、息をひとつ吐いた。
そして弟を想って泣き続けるボッスンの髪を、幼子がするように、慰めるように、不器用ながらも優しく撫でてやった。



***



安形が椿を連れて戻ってきたのは、大分時間が経ってからの事だった。


「戻ったぜぇ」
『遅かったな。ん?何かあったようだが』
「ちょっといざこざあったみてぇで」
『無事なのか?』
「ご心配おかけしてすみません。僕は平気です」
『それなら良かった』
「てゆーか藤崎はまだ泣いてんのかよ。どんだけ水分蓄えてんだ。椿、早く兄貴んとこ行ってやれ」
「はい」


安形に促され、椿は小走りでボッスンの元へ駆け寄った。

ただ、その体裁にスイッチは静かに疑問符を浮かべるばかりで。
椿は安形のジャケットを着て、尚且つ安形に肩を抱かれながら店内に足を踏み入れたのだ。
その背景を朧げに悟るも、明確な答えは全く分からない。
スイッチは訝しげに小首をかしげ、椿の後ろ姿を見据えていた。


「アイツ、喧嘩に巻き込まれたっぽいんだよ」
『喧嘩?』
「あぁ。左腕、ナイフでグサッと。血がドバっと。ハンパじゃねぇからビビったよ」
『それでボッスンは……。というか椿は平気なのか?』
「あぁ。チュウさんとこ連れてったから。何針か縫ったけど直ぐ治るってよ」
『それならひと安心だ』


状況を把握出来ていないスイッチに気付いた安形は事の顛末を簡潔に耳打ちした。
それによって現状を漸く理解することが出来たスイッチ。彼は再度、安堵から息をひとつ吐いた。
そしてボッスンと椿に視線を戻し、安形と共に静観を始めた。


「うっ……、うっ、さすけぇ……」
「遅くなってすまない。佑助、平気か?」
「さすけぇ……?」


泣き疲れながらも、うわごとのように椿の名前を呼び続けていたボッスン。
椿は両手で遮られている視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
そして近い距離でボッスンの名前を呼び、声をかける。
ボッスンは想い焦がれた弟の声を聞いた瞬間、顔を覆っていた両手をゆっくりと下にずらし、目の前にある椿の顔を、その滲んだ視界に捉えた。


「さすけぇ……。さすけぇ……まってたよぉ……。あいたかったよぉ……」
「うん。僕もだ。遅くなってすまなかったな」
「うぅっ……、ひっく、さすけぇ、うではぁ……?だいじょうぶぅ……?」
「え……?佑助、どうして君がそれを……」
「すっげぇいたかったんだよぉ……。ひっく……。さすけもいたかっただろぉ……?」
「……僕はもう大丈夫だ。ありがとう、佑助」


自らの体感した痛みを兄も共有していた事実に、椿は心が揺れた。
そして自然と笑みがこぼれ、慈しむように瞳を細めながら、利き腕とは反対の手でボッスンの髪を撫でる。
ボッスンはただ甘えるように椿をずっと見据えていた。


「…………胸が苦しいんだが」
『奇遇だな。俺もだ』
「何つーか、こう、甘酸っぱくて……」
『双子萌えだ』
「双子萌えか」


何も言わずにふたりを傍観していた安形とスイッチだったが、
双子特有の神秘的な出来事を目の当たりにして胸が高鳴り、そっと頬を染めた。
まるで青春時代の初恋を思わせるような心臓のときめき。
ボッスンと椿の間に入り込めない絆のようなものを感じて、ひたすらに心を揺らされていた。


「胸キュンだ……」
『激しく同意』
「佑助、帰ろう?今日は休講日だから、ふたりでゆっくり休もう?」
「うん……うん……。さすけとずっと一緒にいるぅ……」


そんなふたりの小さな会話は双子の元までは届いておらず、ボッスンと椿は言葉を交わし続ける。
愛しい弟に会えた事で、漸く涙が止まったボッスン。
彼はそのままのろのろと半身を起こし、非常にゆっくりとした速度で更衣室へと向かった。
ふらふらと頼りない背中。
椿はそんな兄の後ろ姿に尚も微笑みながら息をひとつ吐くと、安形とスイッチの元に歩み寄った。


「ご迷惑おかけ致しました」
「いいっていいって。つーか今日はお前ら送ってくよ。流石に不安だからな」
「……はい。宜しくお願い致します」
『かたじけない』
「お前は元気だろが!ま、いいけどよ。あ、そうだスイッチ、コイツもウチで働く事になったから」
『随分と突発的だな』
「成り行きだ成り行き。とりあえず怪我の療養しなきゃだから、2週間後に来てもらうわ」
『了解した』
「宜しくお願い致します」


車の鍵を指に引っ掛け、くるくると回しながら、安形は今後の展開を簡単に話した。
スイッチと椿はその言葉を真っ直ぐに受け取る。
そして3人は更衣室からボッスンが出てくるのを、のんびりと待ち続けた。











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