その後、ふたりはしばらく無言で歩みを進め、数分もしない内にこじんまりとした建物の前に辿りついた。 看板らしきものは一切見当たらない、一見しただけでは病院とは分からない程簡素な建物だ。 「ここが、病院なんですか……?」 「ああ、まあな。医者が大分面倒くさがりな奴だから、いちげんさんはお断りなんだよ」 「病院なのにですか?」 「くっだらねぇ喧嘩がしょっちゅうなんだ。酔っ払いも多いしな。唾つけときゃ治るもんまでノリで来る奴ばっかりで、あのオッサン辟易しちまったんだよ」 「…………はぁ」 「かっかっか。んな不安そうな顔すんな。腕は確かだからよ」 安形の言葉。我が儘とも取れるような医者の理屈に、椿の胸には疑心が込み上げる。 表情からそれを悟った安形は、最初は皆そういう顔すんだよ、と、間延びした笑い声をあげた。 そして出入口の扉を開けると、診察室と書かれた部屋へと迷うことなく足を進めた。 「おーい、チュウさん、居るか?」 安形は扉を開くと共に声をかけた。 視線の先には無精髭を生やした中年の男が回転椅子に座っており、 安形の声に椅子を回転させて振り向くと、再度安形に背を向けた。 「居ねぇよ。残念だったな」 「よし、相変わらず暇そうだな。急患だ。ちょっくら診てやってくんねーか?」 「あー、うん、異常なし。帰っていいぞ」 「こっち向けよ」 はいはい、と、ため息混じりにチュウさんと呼ばれた男は視線を合わせた。 白衣には飾りのように中馬と記された名札が着いている。 椿は思わず声を出して名札に書かれた名前を読んだ。敬称をつけるのも忘れずに。 「中馬、先生?」 「うん、そう。中馬先生」 そこに返ってきたのは余りに締まりのない声。 加えてけだるげな雰囲気と、医大の研修で感じる緊迫感が全くない空間に、椿の疑心はより濃いものとなって椿を染め上げていた。 「……あ、あの、この人、ほんとに……」 「だーいじょうぶだって。おい、チュウさん、早くコイツ診てやってくれよ。何か血ぃ出てんだ」 「血ぃ出んのは生きてるからだ。体の真ん中に手ぇ当ててみな。一所懸命動いてんだろ?」 「早くしろよ。めっちゃ出てんだって。跡残るかもしんねーだろ」 「一生消えねぇ傷がつくときゃな、真っ赤なもんはドバっと出んだ、おぅ。そんで血を失う代わりに大事なもんを守った証拠が体に残る。それが男の勲章ってもんだろ」 「……オッサンよぉ、意味分かんねーこと言ってねーでとっとと診れって」 「お前にはロマンっつーもんがねーのかい。まったく。しょうがねぇな。ほら、坊ちゃん、こっちおいで。そこの椅子座んな」 「お、お願いします……」 中馬の語るロマンと、自身に投げ掛けられた呼び名に戸惑いつつ、椿は中馬の向かいに用意されていた椅子に腰を下ろした。 そして安形のジャケットを簡易的にふたつに畳んで膝に乗せると、負傷した左腕を中馬の眼前へ晒した。 「おぉ、マジで結構血ぃ出てたんだな」 「だーからさっきから言ってんだろーが」 「へいへい。おい坊ちゃん、もうこの服着ねぇだろ?切んぞ」 「はい……」 「もうそんなに血は出てねぇな」 中馬は椿のセーターをつまむと、ひじの辺りにはさみを入れ、中に着ていたシャツごと切り取った。 晒された左腕。乾燥しかけた血が傷口を隠しており、独特の鉄臭さが鼻をついた。 「傷見えねぇしとりあえず拭くぞ」 「んっ……!」 「悪い悪い。ん?ありゃー、これまたきんれーな傷だな。こりゃナイフか?」 「は、はい……」 「ナイフ?お前ほんとに何があったんだよ?」 「年端の変わらない少年が絡まれていたので……」 「お前なぁ……」 「傷自体は深くねーな。綺麗だし、縫合しときゃすぐくっつくだろ。坊ちゃん、麻酔いる?」 「え、あ、お願いします……」 「あいよー」 手緩そうに見えて的確な中馬の診察に椿は度肝を抜かれつつ、素直に頷いた。 中馬はそつのない手つきで麻酔を施し、けだるげな見目とは裏腹な、丁寧な縫合をしてみせた。 椿は唖然としながらも、自身が学んでいる医学の、その縫合の基礎を忠実に守った、教則本のような中馬の手捌きに、彼の技術が本物であることを痛感させられていた。 「はい、おしまい。抜糸は1週間後ね」 「はい」 「あとこれ、毎食後に飲めよ。そんでこれもやるよ」 「……変な薬じゃねーだろーな?」 「ばかやろう。抗生物質と痛み止めだよ。坊ちゃん、痛み止めは我慢出来なくなったら飲みな」 「了解です」 中馬は無駄のない手つきで縫合を終えると、椿の左腕に包帯を巻いた。 そして薬を自ら処方し、椿に手渡す。 椿は薬を受け取り、中馬に頭を下げると、ジャケットを抱えて立ち上がった。 「中馬先生、ありがとうございました」 「あいよー」 「あの、お代は……」 「そこの老け顔にツケとく」 「まーたチュウさんは……。ま、いいや。あんがとよ」 「はいはい」 何処か似通ったふたりの空気。 それらに気圧されながらも、椿は中馬に軽く会釈をすると、いつの間にか出入口に向かっていた安形の背を小走りで追いかけた。 「あっ……、あがたさん!」 「ん?」 「ありがとうございました」 「はいよ。あ、ジャケット着な。寒みぃだろ」 「あ……。すみません……これ、汚してしまって……。もう着られなくなっちゃいましたね……」 「いんだよ。似たのいっぱいあっから。ほら、行くぞ。兄貴が泣いて待ってるぜ」 「はい……」 そして病院を抜けると、椿は少し大きい安形のジャケットを着て、改めて兄の待つお店へ安形と共に歩みを進めた。 傷付いた左腕は先程のように安形に守られながら。 「安形さん」 「あん?」 その道すがら、後少しで店に到着する辺りで、椿は真剣な表情で安形に声をかけた。 真面目な椿だ。被った恩に対して、謝罪と感謝の気持ちを懸命に伝えようと、ずっと模索していたのだ。 「その、先程のお代はいかほどでしょうか?後、このジャケット、僕弁償致します。とても高価な御召し物とお見受けしますので、僕なんかの貯蓄では到底足りないでしょうけど……。でも、必ず返済します。何かお礼も」 「あーあー、いいいい、めんどくせぇから。そんなんいいって。お前の兄貴にゃこっちも世話になってっし。よく頑張ってくれてっから、アイツ」 「でも……!」 「いーからいーから」 「そんな!安形さん、お願いです。何かお礼をさせて下さい。兄共々お世話になりっぱなしで、流石に申し訳ないですから……!」 「そんなん言われてもなぁ……」 椿の言葉を遮り、安形は更にそれをのらりくらりと交わしていった。 安形の言葉に嘘は微塵もない。本心からの発言。 しかし、それでは気が収まらない椿だ。 自分を助けてくれた安形に何か少しでも恩返したいと、半ば躍起になりながら声をあげていた。 「ジャケットも駄目にして、お時間も頂いて、恐縮なんです。僕に出来ることなら何でもしますから、だから、安形さん!お願いします!」 「…………あ」 「安形さん?」 「そこまで言うならよぉ、いっこ頼み聞いてくれっか?」 「はい!僕に出来ることなら何でも致します!何なりとお申しつけ下さい!」 椿の真摯な眼差しと言葉にしばらくたじろいでいた安形だったが、ふと彼の脳裏にひとつの事柄が思い浮かんだ。 それは自身の経営するホストクラブが現状、抱えている問題。 人手不足。 「…………え?」 「いや、だから、お前、うちで働いてくんね?」 「うち、……と、言いますと……」 「うん、ホストクラブ」 「……ホスト、クラブ……」 「うん、そう。ホストクラブ。つまり、ホストになってくんね?人足りてねーんだよ、今」 「……ホ、スト…………」 椿は頭が真っ白になった。 まさかホストになってくれなんて言われるとは思いもしなかったのだ。 「僕が、…………ホストに……?」 「うん」 相変わらず締まりのない安形の声。 椿は纏まらない思考の中で、必死に安形の言葉を反芻した。 (……僕が……ホスト……?) 医師になる為、来る日も来る日も勉学に励んでいる自分。 それが今後、兄と同じくホストクラブで働くということは、つまり、ホストになるということで、医師にはなれないということなのだろうか? 安形は自分を救ってくれた恩人で、何でもすると言った気持ちは本物だった。 だが、それで夢を絶つ事になってしまっては、本末転倒になってしまう。 椿は安形の依頼に対して、自身の目標を掲げながら、それらをひたすら天秤にかけ、そして苦悩した。 どうするべきなのだろう。 自分は一体、何を優先すべきなのか。 一体、どうしたら。 「……っ……」 悩む椿。 答えが見つからず、瞳にはうっすらと涙が滲み始めた。 ただ、そんな椿に救いの手を差し延べたのは、やはり目の前の男、安形だった。 「かっかっか」 「え……?」 「んな固くなんなって。藤崎から聞いてっけど、お前医大生なんだろ?そっちに支障が出ない程度で構わねーよ」 「?」 「終電で帰るんでもいいし、週1とかでも全然問題ねぇ。ちょっとお手伝いする感覚でいいから」 「……お手伝い……」 「だーいじょーぶ。お前の夢を摘み取るつもりなんかねぇし、そんな権利もねーんだ。お前の都合優先してくれて構わねーから、な?」 「安形さん……」 「だから頼む、椿、俺の店手伝ってくれねーか?」 優しい笑みを浮かべたまま、安形は椿の目を見据えた。 柔らかな眼差し。視線に孕む広大な優しさに椿は心が揺れ、気付けば首をゆっくりと縦に振っていた。 「……はい」 「おし。助かった。ありがとな、椿」 「…………多々ご迷惑をおかけするかと存じますが、兄共々、これからどうぞ宜しくお願い致します……」 「固ぇ固ぇ」 律儀に頭を下げた椿に安形は独特の笑い声をあげる。 そして自分よりも低い位置にある椿の髪を、ただ優しく撫であげた。 fin チュウさんの診察シーンは適当である。 そしてめっちゃ血ぃ出てんのに傷深くないんかいとか突っ込まないでwww頼むw |