運命と呼ぶべきか


椿はひとり、華武木町を歩いていた。
きっかけは彼に送られたメール。差出人はスイッチだ。
ボッスンが酔い潰れて、佐介に会いたい、迎えに来て欲しいとずっと泣いている、と、可愛いらしい装飾が施されたメールが彼の携帯に送信されてきたのだ。
メールを見て椿はため息を吐き、了解と簡潔に返信をして、眉間にしわを寄せた。

佐介とは椿だ。そしてボッスンとは、椿の双子の兄である。
藤崎佑助。ホストクラブKaimeiでNo.7の位置にいる、そつのないホストだ。

椿は自分の兄が都会の中心でホストをしていることは知っていた。理由は単純。生活費を稼ぐため。
長くは続けられないバイトであると椿は反対したものの、ボッスンは折を見て区切りをつけると約束したため、椿もそれ以上は口を閉ざした。
そして椿が彼を責められない理由がもうひとつ。
ボッスンは椿と同居している部屋の家賃や生活費、更には大学の医学部に通っている椿に代わり、学費の一部さえも、自らの収入から捻出するようになったのだ。
当初は親からの仕送りがあるからと椿は断りをいれていたが、
俺がしたくてしているから、仕送りは貯金しておいて、後で親孝行に使ってやれと言われれば何も言い返せず。
そのため椿はこうして、時折酔い潰れて泣き上戸になる泣き虫の兄を、何も言わずに迎えに行くのだ。

人通りの少ない街を歩く。何度歩いても椿はこの街が好きになれなかった。
椿が着ている真っ白なセーターとは裏腹な濁った空気、耳をつんざく喧騒、そしてゴミ溜めのような汚い道路。
人間の汚らわしい部分を垣間見るような景色に、椿はいつも吐き気に似た不快感を覚える。
そして眉間にしわを寄せながら尚も歩みを進めていると、椿の耳に、もはや聞き慣れてしまった怒号が飛び込んできた。


「……てめぇ!ブッ殺す!」


面倒事に関わるまいと、いつもなら歩みを止める事などない。だが、今回は違った。
それが余りに近い位置で聞こえたのだ。
椿は思わずその方向に振り向く。左側、細い路地だ。
影が重なり合い、朝方だというのに真っ暗なそこ。
目を細めて視点を合わせると、銀髪の若い男と怒りに顔を染めた男が対峙していた。
銀髪の男は別のふたりの男に後ろ手に拘束され、口から血を流しており、ただならぬ空気が流れている。
しかし、椿はあまり空気を読むのが得意ではなく、瞳に映った光景を確認すると、後先考えずに駆け出していた。


「何をしている!」
「っ……!?何だテメー、びびらせんなよ!マッポかと思ったじゃねーか!」
「意味の分からないことを言うな!ひとりに多勢など卑怯だろう!」
「うるせー!コイツブッ殺さねーと気が済まねぇんだよ!」


医師を志すものとして、椿の正義感はとても強い。
圧倒的な不平を目の当たりにして、椿もたまらず大声をあげた。
しかし、叫ぶ男は怯む様子などなく、そのままナイフを取り出すと、銀髪の男を睨みつけた。


「よせ!何をするつもりだ!」
「コイツをブッ殺す!」
「やめろ!警察を呼ぶぞ!」
「てめっ……!」


男の血走った眼差しに、椿は尋常ではない程の危機感を覚え、右肩にかけた鞄から携帯電話を取り出そうと試みた。
だが、視線を鞄に逸らしたその瞬間、左腕に感じたのは携帯電話の重みではなくて。


「……え……?」


酷く鋭利な刃物の感覚。
痛みより先に映像が視界を揺らし、それからじわじわと滲む鮮血に比例して、焼け付くような痛みが溢れ出した。


「……っ!」
「お、おい!何でコイツやってんだよ!お前!」
「う、う、うるせー!」
「やべぇ、逃げんぞ!」


驚愕に瞳を見開いた銀髪の男を残し、3人は駆け足でその場から逃げ去っていった。
その足音を聞きながらも、椿は左腕を抱え、その場にうずくまるしか出来ない。
痛い。その感覚だけが椿を襲い、流れる血が真っ白な布地を赤く染め、ゆっくりとゴミだらけの地面に落ちた。


「……っく、ぅ」
「お、おい、アンタ……」
「君……、君は、無事か?」


銀髪の男が駆け寄り、不安に満ちた眼差しで椿を見やった。
瞳が悩ましげに揺れている。
椿も真っ直ぐに彼を見つめ返し、重傷ではないことを悟ると、安堵から笑みを零した。


「良かった……」
「な、アンタ、何で……」
「君こそ、一体何が……」
「……あいつらのグループが俺のダチに手ぇだしたから、あのイカれた野郎を吊しただけだ」
「吊っ!?……う!」
「お、おい、アンタ、大丈夫かよ!」


戸惑いに男が再度瞳を見開いたところで、今度はふたりの耳にサイレンの音が飛び込んできた。
徐々に大きくなるそれ。ふたりは1度、大きく肩を揺らした。


「逃げろ!」
「はっ!?」
「君は逃げるんだ!」
「そんな……、でも、アンタ……!」
「僕も直ぐに立ち去る!平気だ!だから君は早く逃げろ!警察沙汰は面倒だろう!」
「……っ……」


椿の声に男は尚も戸惑いつつ、泣きそうに顔を歪めながらその場を立ち去った。
軽やかな動き。みるみる内に銀色は朝の光に溶けていく。


「……はぁっ……」


椿はため息を吐いた。
そして左腕の痛みを歯を食いしばって堪える。

早く逃げなければ。男を逃がしはしたものの、自分だって警察沙汰などはまっぴら御免だ。
だが、直ぐにその場を立ち去りたい衝動とは裏腹に、真っ赤に染まった左腕はその痛みを増幅させていく。

ただ、いつもの様に兄を迎えに来ただけなのに。
この一連の沙汰が明るみになったら、自分は大学に居られるのだろうか。

椿は自身の行動に後悔などしていなかったが、強い自責の念にかられていた。

頭より先に体が動くのは昔からの性だった。
それによって今までも何度か問題を起こしてはいたけれど、警察の厄介になる程大袈裟なものはなくて。

いつも誰かが助けてくれていた。
それは兄であったり、仲間であったり、様々であるけれど。

しかし、自分は今ひとりぼっちだ。
こんな汚い街の片隅に、たったひとり、うずくまって。


「……っ……」


絶望に満ちた孤独感に椿の瞳がゆらゆら揺れる。
助けて、助けて、誰か、誰か。


「ぅ……」


助けて、佑助。


椿の胸に込み上げた思い。
それらと共に瞳から涙が溢れ落ちた。

その瞬間だった。


「…………おい、お前、大丈夫か?」


椿の背に声がかかったのだ。


(……っ!)


椿は肩を大きく揺らし、呼吸が一瞬止まった。
聞こえた声が、思い焦がれた兄のものではなく、聞き慣れないものだったからだ。
これは警察だろうか。
抑え切れない不安感に心臓が激しく脈を打ち、椿は空気を飲んだ。

終りだ。
医師になる夢も、平穏な日々も、今日ですべておしまいだ。

絶望にうちひしがれながら、椿はゆっくりと振り返り、声の持ち主へ視線を合わせた。


「…………え……」


しかし、そこにいたのは見慣れた制服を着た警察官ではなくて。


「おぉ、やっぱ椿じゃねーか」
「……あ、がた……さん……?」


スーツを緩く着こなした、ホストクラブKaimeiのオーナー、安形だった。

椿と安形は親しくはないものの、面識はあった。
椿が何度かボッスンを迎えに行った際、たまに会う事があったため、軽く会釈を交わす程度のもの。

だが、自分とさして歳の離れていない安形がホストクラブを経営している事実に椿は衝撃を受け、
そして兄の収入から見て取れるように、経営者として優れた手腕を持っている事を悟った折には、敬意すら芽生えていた。


「来んの遅ぇと思ったら……。お前こんなとこで何してたんだ?気分でも悪く……っておい!何だ!?どうしたそれ!?」
「あ、あが、た、さっ……あがたさんっ……!」


中々ボッスンを迎えに来ない椿を心配して、安形は椿を探しに店周辺を歩いていた。
そこで路地裏にうずくまる人影を見つけたのだ。
見覚えのある後ろ姿に、半信半疑ながらも声をかけたら案の定、それは椿本人で。
気分でも悪くなったのかと呑気な事を考えた安形だったが、血に染まる椿の左腕をその視界に捉えた瞬間背筋が凍り、血相を変えて椿の元にしゃがみ込んだ。


「おい、平気か?何があった?……ごめんな、もっと早く来てやれば良かったな。辛かっただろう?」
「……あ、がた、さ…………」
「大丈夫だ。もう大丈夫だ。安心しな。ほら、椿、立てるか?」
「……ひっ……く……う、うぁ……うぁぁ……」
「……あぁ、うん、怖かったよな。痛かったよな。よく頑張った。よく頑張った」
「あがたさっ……あがたさぁ……あがたさぁぁん……うぁぁ……うぁぁん……」
「もう大丈夫。もう大丈夫だから。おら、泣くな泣くな。お前ら、兄弟揃って泣き虫なんだな」


安堵から本格的にしゃくりあげた椿。安形はそんな椿に微笑み、自身のジャケットを羽織らせて優しく髪を撫でた。
そして椿の左腕を庇うように右手を椿の背に回し、ゆっくりと立ち上がる。
尚も泣き続ける椿をあやすように、安形は空いた左手で椿の髪を撫で続けた。


「よし、歩けるか?医者んとこ連れてってやるから、もうちょい気張れ」
「……うっ、はい、ありがとうございます」
「気にすんな。ほら、行くぞ」
「……はっ、い」


子供のように嗚咽するも、徐々に椿の涙は引き始めた。
だが、未だ庇護欲をかきたてる痛々しい左腕と、滲んだ目元。
そんな椿を守るように、安形は右腕を椿の右肩へ回して歩き出した。


「……そういえば」
「あん?」
「さっき、サイレンが……」
「ああ、ここじゃそんなんしょっちゅうだよ。多分別件じゃねーか?」
「良かった……」


椿の最後の心残り。
だがそれも安形の締まりのない言葉によって、杞憂に終った。
そして漸く、椿の瞳にいつもの気丈さが戻り始めた。











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