「漸く笑った」
「……え?」
「今日は、泣いてばっかりだったからな」


会長はそう言って安堵したかのように微笑み、俺の瞼に優しく口づけを落とした。


「……っかいちょう」


溢れる想いに先導され、会長を力強く抱きしめた。
先程と同じように襟肩に顔を埋め、ぐりぐりと左右に振り乱す。
会長も同じように、俺の髪に指を絡ませ、乱雑に撫でた。


「はは。可愛いな、キリは」
「なんか、……今日の会長はかっこいいですね」
「今日のキリが甘えん坊なだけだろう?こんなキリは初めてみたな」
「……恥ずかしいです……」


俺は照れを隠すように更に顔を埋める。
会長は優しく俺を撫でながら言葉を続けた。


「キリが常に僕の事を優先してくれているのは分かっているし、感謝もしている。」
「恐縮です……」
「……だけど、もっと自分を出してくれ。いつもの格好いいキリもいいけれど、今日みたいに泣き虫で、甘えん坊で……。そんな子供のような可愛いキリも、……僕は好きだ」


何処までも凛とした会長の言葉に、顔中があつくなって、胸がきゅっと締め付けられた。
俺は抱きしめる腕に力をこめて、しばらくそのまま、会長の温もりに酔いしれる。


「……あ」


その中でふと思い出された赤い角帽子。
自分を出せということであるし、どうせならと、俺は気になっていた事を聞くことにした。


「……会長」
「どうした?」
「藤崎と何を話したんですか?」
「えっ……?」


会長の戸惑った声色に、俺は埋めていた顔をあげて、会長をじっと見つめた。


「俺との話、したんですよね?」
「何故それを……」
「鬼姫です」
「……鬼塚?」
「鬼姫に聞きました」
「スケット団っ……」


会長は悔しそうに眉をひそめた後、ふぅ、と息を大きく吐いた。
そして少しはにかみながら俺を見つめた。


「……キリと別れてから、ずっと胸が苦しいままで、……いつか納まる日がくるのか、そう尋ねた」
「……」
「他の誰かを愛すれば納まるのでは、と言われた。けれど、キリ以外を愛するなんて、……僕には考えられなかった」
「……会長」
「そして、叱責された。言葉足らずの僕を、キリに甘えて受動的であった僕を、藤崎は鋭く指摘した。……まさかキリから好きだと言われるとは、予想もしていなかったがな」


会長はふっと微笑む。
ひとりで空回り、激しく嗚咽した自分へ羞恥心が芽生え、俺は顔中に熱が集まるのを感じた。


「キリが、まだ僕を好きでいてくれて良かった」
「……」
「僕にとってキリは、いつだって可愛い後輩で、かけがえのない仲間で……」


言葉の途中で会長は何かを思い出したかのように目を見開き、琥珀色のその瞳で俺を捉えた。


「……会長?」
「言い忘れていた」
「……何でしょうか?」


急に改まった会長を不思議そうに見つめると、会長は照れ隠しのようにオホン、とひとつ咳ばらいをした。


「こんな僕だけど、……僕はずっと、君の空でいたい」
「え……?」
「キリ、好きだ。もう一度僕と付き合ってくれるか?」


予想もしていなかった言葉に、呼吸が止まったような気がした。


1週間、同じ場所で紡がれたのは別れの言葉だった。
瞳を合わせることもなく、曇った言葉に導かれ、離れてしまった俺達だけど。
雲は去ったのだ。空は晴れて、時間と共に柔らかく色を変え、今俺の目の前で優しく揺れている。
一度は終わってしまった俺達。けれど、また始められるだろう。
俺が大好きな大空は、俺を求めてくれているから。


「……はい」


琥珀色に映った俺は、幸せそうに微笑んでいた。


「さあ、帰ろう。外が暗くなってきた」
「はい」


会長の言葉に視線を逸らすと、会長を染めていた夕日は沈みかけていて、オレンジ色が夜の色と混ざりかけていた。


「……会長、ちょっと待ってください……」
「ん?」


俺はすでに帰り支度をすませた会長を呼び、ペン立てに刺さっていたマジックを手に取った。
そして左手で会長の右手をとり、手の平を自分の方に向ける。
不思議そうに会長は俺を見つめた。
俺はその視線を受けながら、マジックを口にくわえてキャップを外し、文字を書き始めた。


「キリ?」


たった4文字に、溢れんばかりの願いを込める。
触れられることがこんなにも嬉しいから、もう二度と失いたくない。ずっと離したくない。絶対誰にも盗られたくない。
求めることで空になるなら、俺はいつまでも空を仰ぎ続ける。
他の誰でもない俺が、果てのない大空を守りたい。


「ふっ……ふふっ……くすぐったいな」


俺が手の平にペン先を走らせている間、会長は自分の手の甲を見つめながらくすぐったそうに身をよじらせていた。


「……っし」


最後の1文字を書き終え、その光景に満足する。
マジックにキャップを被せるのと同時、会長の右手を解放した。


「一体何を書いたんだ?」


会長は童心に返ったようにわくわくしながら、じっと手の平を見つめた。


「……ん?」


そして書かれた文字を見てすぐ、真顔になった。
その後、俺の顔を見つめ、また手の平を見つめ、それを2、3度繰り返し、最終的に訳がわからないと言うふうに眉を寄せて、首を傾げた。


「なんだこれは?」
「俺の名前です」
「そんな事は分かっている。どうして名前を書いたんだ?」
「鬼姫です」
「は?」
「鬼姫に言われたんです」
「鬼塚?」
「はい」
「……はぁ?」


会長は依然として訝しげな表情のままだ。
対称的に俺の頬は満足げに緩むばかり。
そんな俺を見た会長は考えるのを諦めたようで、小さな子供を見るようにそっと微笑み、口を開いた。


「…………君こそ、鬼塚と一体何を話したんだ……」


大空の元では、俺はただちっぽけな存在なのだろう。
だけど、果てのない大空は、太陽を、月を、星を、雲を受け入れるように、ちっぽけな俺さえもたやすく受け入れてくれた。
触れることを許してくれた。必要としてくれた。拭い去れない雨雲を眼前にさらし、雨を降らせた。新しい色を見せてくれた。

今度は何色の空を見せてくれるのだろうか。
きっとどれも眩しくて、少し儚げで、そのすべては、狂おしい程に愛しいものであるのだろう。
色彩のひとつひとつを脳裏に焼き付けて、沢山の色に染まりながら微笑み合えたなら、それは何よりもの幸せなんだ。


「帰るぞ、キリ」
「はい!」


夕日はすっかり沈んで、オレンジ色は夜に染められてしまったけれど。
会長の琥珀色の瞳は相も変わらず優しく揺れていて、俺の微笑みを鮮やかに映し出していた。





fin





→後書き





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