止まる事を知らない涙が次々と頬を濡らす。
俺はこれ以上無様な姿を見せたくなくて、溢れる涙を両手で拭いながら会長に背を向けた。


「……ひくっ……うっ……」


部屋に響く自分のしゃくりあげる声が余りにも情けなくて惨めな気持ちになる。
早く帰ろう。早く帰って、しっかり忘れよう。ただこれだけを思って自分の机へ歩みを進めた。
しかし瞬間、背中に軽い衝撃が走った。同時に胸にしがみつかれる感覚。


「…………泣くな……キリ、泣かないでくれ……」


直後に聞こえた会長の声。
未だしゃくりあげながら視線を落とすと、俺よりも一回り細い2本の腕が俺の胸を捕えていた。


「…………え……?」


状況が理解出来ない。
余りにも唐突な展開に、中々止まらなかったはずの俺の嗚咽は嘘みたいに止み、一気に思考回路が停止した。
少しの静寂が2人を包む。
そんな中、会長の腕の力強さだけが鮮明に胸に響いていて、どこか懐かしい安心感を俺にもたらしていた。


「……すまない。……キリ、すまない」


沈黙を破ったのは消え入りそうな程弱々しい会長の声だった。


「……かいちょう……?」


この状況を全く理解することが出来なくて、俺はまだ震えの残る声で会長を呼んだ。


「キリ……」


会長はそれに応えるように俺の名前を呼んだ後、回している腕に力を込めた。


「…………好きだ」


そして、呼吸の音に掻き消されてしまうほどか細い声で、言葉を紡いだ。


「…………え……?」
「……好きだ……好きだ……」
「……え……?え……?」
「……好きだ……」


会長は腕に力を込めたまま、何度も同じ言葉を囁く。
そして小さくしゃくりあげた。

俺はただ、聞こえた言葉に耳を疑った。
一連の展開に未だ追いつけていない思考の中で、俺は必死で会長の言葉を反芻する。
好き?会長が、俺を?


「……え……かいちょう、……え……だって……だって…………え……?」


まとまらない思考を反映したかのように歯切れの悪い言葉が次々と口から漏れる。
頭の中は疑問符で埋め尽くされるばかりだ。
たった今俺と同じ想いを紡いだ会長の唇は、1週間前同じ場所で、別れの言葉を紡いだのだ。


「……好きだよ、キリ。……っ……ずっと、ずっと……。……ほんとうは、別れたくっ、……なんか、なかった……。」


悲しげな会長の声が耳に響く。
会長は小さく鼻を啜って、呼吸を整えた。


「……分かってた。キリと話す機会が、減っていた事。段々、キリから連絡も減って、僕は……愛想を尽かされて、……嫌われてしまったかと思った。」
「……」
「……僕は、誰かと付き合うとか、その、このような事は初めてで……。仕事を止める訳にはいかないし、どうしたらいいか……、わからなかった……」
「……かいちょう」
「何がキリの為になるのか、わからなかった。……それで、僕は、キリを、僕から解放すればいいのかと、……そう、思って……」


たどたどしく吐露される会長の言葉に胸が苦しくなった。
会長は不器用に、それでも懸命に、俺を想ってくれていたのだ。


「……僕がちゃんと、僕からちゃんと、キリに歩み寄れば良かったんだ。それなのに……僕の勝手な判断が、結局、キリを傷付けてしまった。すまない……キリ、本当にすまない……」
「……会長……」


会長の想いが鼓膜を刺激して、直接心に届いた。
胸がきゅっと音を立てたように思えて、止まったはずの涙がまた溢れそうになった。

やっぱり俺はどこまでも馬鹿だった。
会長は誰に対しても真摯にぶつかっていく方で、ちょっと不器用で、それゆえに常に多忙で。そんなの分かりきっていたことなのに。
俺は会長の青色の強さに甘えていた。
俺は会長のオレンジ色の優しさに甘えていた。
傷付くことを恐れて、会長のように正面からぶつかっていくことを避けていた。
会長の望みを叶える振りをして、ただ現実から逃げていただけだったんだ。

心の距離は少しも離れてなんかいなかったのに。
雲が大空を覆い尽くして光を遮るように、雨を降らせて視界を歪ませるように、お互いの心がどこにあるのか、少し見えづらくなってしまっていただけだった。
空が曇っていても、雨が降っていても、俺は自由に動けるというのに。
俺はてるてる坊主を作ることもせず、傘をさすこともせず、いつか雨雲が去ることを、暖かい家の中から他人事のように願っていただけだったんだ。


「会長……、腕を、解いて下さい……」


俺は先程の嗚咽のせいで掠れてしまった声を、懸命に振り絞った。
会長と正面から向き合いたいと思った。

空は青色だけじゃない。空はオレンジ色だけじゃない。たった今知った新しい空の色。
分厚い雲に光を奪われ、広い大地に涙を降らす、そんな弱さを映したような、悲しげな灰色。

もっと知りたいと思った。
大空を形成する色のひとつひとつを。そのすべてを。
目を逸らさず、すべての色に染まりたい。
鮮やかな極彩色に、その裏側にある、陰を背負った色彩にも。
空は何も変わらずにそこにあって、俺を包んでくれることが分かったから。











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