時は無情だとつくづく思う。 僕がどんなに落ち込んでいようとも、運命の日を容赦なく連れてくるのだから。 「行きましょうか」 「あ、ああ……」 ついに迎えた日曜日。 キリと恋人で居られる、最後の日。 僕を迎えに来たキリは普段とは違う、見慣れない私服姿だった。 右手に大きなトートバッグをぶら下げて、長いマフラーをなびかせている。 Tシャツとカーディガン、タイトなデニムにスニーカーと、黒に統一されているのにすごくお洒落で、だけど少しラフで。 光に透ける銀髪がキラキラと輝いていて、ちょっと眩しい。 僕はお洒落などよく分からないため、動き易さを重視した格好だ。 シャツとカーディガンに、チェックのパンツとスニーカー。着慣れている洋服なのに、今日はとても、息苦しい。 「裏山へ行きましょう。街が見下ろせて、空気も綺麗ですから」 「裏山か。久しく行っていないな」 そして他愛もない会話をしながら、裏山へ向かう。 僕より少しだけ背の高いキリが、僕の歩幅に合わせて歩いてくれているのが嬉しくて、悲しくて。 僕はちゃんと笑えているだろうか。 いつも通りに言葉を紡げているだろうか。 キリの柔らかな眼差しに、僕は一体どんな顔をして映っているのだろう。 渦巻く懸念に歯を食いしばって堪える。 ごまかすように貼付けた笑顔は、キリにどんな形で届いただろう。 「さ、会長」 「……えっ……」 気づかぬ内に裏山に着いていた。 キリは当たり前のように僕にスッと左手を差し出して。 僕より少し大きくて、ゴツゴツしていない綺麗な手。相変わらず傷だらけの指先。 心が痛む。呼吸が乱れる。すべて覆い隠すように笑みを浮かべて、僕は右手を繋いだ。 今だけ。今日だけ。お願い。 今日が終わるその日までは、どうかキリを独り占めさせてほしい。 許してほしい。 キリの優しさに甘えて、触れ合う温もりに歓喜する僕のずるい心を、どうか。 でも、最後だから。これで最後だから。だから、許して。 切なる願いを右手に込めて、緩やかな傾斜を登って行く。 沢山の人が踏みならして出来た小さな道を、ひたすら進んで。 だけどそれは、一歩一歩、別れに近づいているということ。 怖くて、苦しくて、逃げたくて。 だけど、キリは優しくて。 繋いだ手を離すことは、出来なくて。 涙が零れそうになった。 「後少しで頂上ですね」 「……そうだな」 心臓が大きく跳ねた。 今まで優しい笑みを浮かべていたキリの顔が、一瞬だけ、強張ったから。 (……やっぱり……) 想像が着々と現実を纏い始める。 キリは顔を隠すかのように半歩前を歩きだした。 痛む心には気づかないフリをして、一段と険しさを増した道のりを、キリの後ろ姿を眺めて進む。 これが最後。 きっと、頂上に着いたら終わってしまう、淡い甘い関係。 思い返せば、キリとの出会いは、キリの不敵な笑顔からだった。 ひどく生意気で、心の底から激昂したこともあったけれど。 触れ合う中で気づいたのは、仲間思いで、少し臆病で、不器用な一面。 何度も湾曲した道を歩んで、やっと居場所を手に入れたキリは、本当にキラキラしていた。 優しくて、真摯で、格好よくて、可愛くて。 そんなキリを好きになるのに時間はかからなかった。 僕はキリと出会えてから、色々な景色を見ることが出来た。 キリの大きな愛に包まれて過ごした毎日は、僕に取って、かけがえのない宝物で。 「……っ……」 涙が一筋零れて、僕は慌ててそれを拭った。 そして木漏れ日が次第に光を増して、キリの銀髪を鮮やかに透かす。 「……あ。会長、……着きましたよ」 笑顔で振り返ったキリ。 その場で立ち止まって、僕を先に頂上へと促した。 キリの横を通り過ぎる。すると眼下には小さく凝縮された街並みが広がり、遮るもののない太陽が、冷たい空気を穏やかに暖めた。 「………わぁ………」 感嘆が自然と口からこぼれる。 キリは右手に抱えていた荷物を備え付けてあるベンチの真ん中に置いた。 そして僕の右側に並んで、同じように街を眺める。 「いい景色ですね」 「……そうだな」 ちっぽけな街並。それを照らす太陽。 透き通る空気に、頬を撫でるそよ風。 隣に佇む、大好きなキリ。 (…………今、だ……) 脳が叫ぶ。 心臓が泣く。 全身が強張る。 ついに訪れた運命の瞬間。まだまだ知らないキリが沢山いるけれど。だけど、もう終わり。僕は言わなければいけない。 さよならと、ありがとうを。 「……キリ……」 「何ですか?」 「……ぁ……」 だけど、目が合った瞬間。 唇が渇いた。口内が渇いた。 そのまま肺まで干からびて、吸い込む空気が掠れた音を鳴らし始める。 カラカラに渇いた唇からは、何ひとつ言葉を紡げない。 言わなければ。 さよなら、って。 ありがとう、って。 ただそれだけを、キリに言わなければいけないのに。 「……会長…………?」 言葉が出ない。 それだけじゃない。 不思議そうに僕を見つめるキリの眼差しに耐え切れなくて。 僕はキリから瞳を逸らしてしまった。見ていられなかったのだ。 キリを見つめていたら、言ってはいけない気持ちが溢れてしまいそうで。 今は必死で歯を食いしばって、口を閉ざすしか出来ない。 (……なんで、言えないんだ……) どこまでも我が儘な自分に嫌気がさす。 訪れたあまりいいものとは言えない沈黙に、心臓は更に激しさを増した。 そよ風がなびく。頬を掠めて、溶けていく。 僕もこの風の様に、さらりと言葉を紡ぐことが出来たら良いのに。 どれだけ願おうとも、カラカラの口内はそれを許してくれなくて。 結局駄目だ。上手くいかない。 最後の最後までキリに甘えるなんて、僕は本当に救いようがない。 そもそも、何でこんなことになってしまったのだろう。 何で別れなければならないのだろう。 何で、キリは、僕を。 「……っ……」 噛み締める奥歯が痛くなってきて、涙が零れそうになった。 正にその時だった。 「……えっ…………?」 ふわり、と。浮かんだのだ。僕の体が。 そして眼下に映ったのは小さな街並ではなくて、大好きなキリの顔。 どこまでも優しいキリの瞳が僕を映していて。 キリの2本の腕で、僕はキリをふわりと見下ろしていた。 「…………キ、リ……?」 「何故、そんなにも浮かない顔をしていらっしゃるのか、俺には全く分からないですが……」 「そ、れは……」 「会長に、そんなお顔は似合いませんよ」 そう言って、キリは。 「笑って、会長。あなたには、笑顔がとても似合いますから」 泣きたくなる程に、そっと優しく、微笑んだ。 (……ああ…………) 決意がそよ風に流されていった。 優し過ぎるキリの笑顔が、ただ愛しくて。 (……言えないや…………) とっても好きだ。キリのこと。 キリの笑顔に包まれて、キリの優しさに包まれて、甘い甘い浮遊感にいつまでも包まれていたいと、僕は今、そう願ってしまった。 ねぇ、キリ。 僕は何も知らないフリをするから、キリが別れを切り出すその時まで、君の優しさに甘えていては駄目かな? 言えそうにないんだ。 口を開いたらきっと、キリを想う気持ちしか出てこない。 キリが愛しいから。キリを愛しているから。 キリ。好きだ。好きだよ。好き。 さよならなんて、したくない。 さよならなんて、やっぱりできない。 「……っ、……ぅ……」 キリの前で泣くつもりなどこれっぽっちも無かったのに。 僕の意に反して、涙がぽろぽろと頬を伝って零れ落ちていった。 「……えっ…………!?」 突然泣き出した僕にキリは驚き、僕を地面に降ろす。 そして優しく、両手の親指で僕の涙を拭ってくれた。 「会長、そんな深刻なお悩みを……?」 僕の目線に合わせて、真剣な眼差しでキリは僕を見つめてくる。 僕はその瞳を映しながら、声をあげずに涙を流すだけ。 「……会長、話してはいただけませんか?何があなたをそんなに悩ませているのか、俺に………」 「……キリ…………」 どこまでも優しい言葉と眼差し。 涙を拭ってくれる、傷だらけの手。 すべて、大好きなキリのもの。 心が泣き叫び過ぎて、もう何も考えられなくなった。 胸を支配するのは、キリへの一途な想いだけ。 (…………好き……) 「……かいちょう、っ……?」 僕はキリの両肩に手を着いて、そっと唇を触れ合わせた。 柔らかい愛の形。 例え一方的なものだとしても、その温もりは本物で。 唇を離すと、また新しい涙が次々と溢れて、頬を濡らした。 キリは驚愕していて、少し訝しげで、でもまっすぐに僕を見つめている。 「キリ……。好きだ…………」 そして、僕はついに本音を吐露してしまった。 「……会長…………」 「僕は、……君と鬼塚とのこと、……知ってしまった……」 「えっ……!?」 「……金曜日、中庭で話をしていたのを、偶然聞いてしまったんだ……」 僕の言葉にキリの瞳が大きく開かれて、キリは明らかに動揺しだした。 この間と全く同じ。僕と焦燥をその瞳に映して、分かりやすい程に狼狽している。 分かってる。こんなの、ひどくずるいやり方だって。 だけど―――、 「……っでも、僕は、君が好きだ……。別れたくない……。別れたくないんだ……」 「……え……?」 「キリ、お願い……、傍に居て。僕だけをずっと愛していて…………」 「さよならなんて、したくない……」 すまない、キリ。 こんなずるい僕を、君の優しさに甘え続けて、君を困らせてしまう我が儘な僕を、どうか許して。 → |