杞憂し、一喜一憂する キリが僕に隠し事をしていた。 事の始まりは月曜日。今週の初めだ。 何故かキリがスケット団の部室から出てきたのだ。 僕が声をかけるとキリは僕と焦燥をその瞳に映し、明らかに狼狽して。 どうしたのかという僕の単純な問いに曖昧な言葉で返事をした。 スケット団は主に人助けを担っている。相談事もしかり。 つまり、学園のよろず屋の様な存在であると言える。 そのスケット団をキリが尋ねていたということは、何か頼み事があったということだ。 生徒会ではなくスケット団を選んだ理由。それが分からなくて。 僕はただ、きゅっと締め付けられた胸が、とても苦しくて、とても悲しかったということを、今でも鮮明に覚えている。 そして、すぐ翌日。 キリの左指には沢山の絆創膏が施されていて、両手には所々に火傷のような跡がついていた。 勿論、何事かと尋ねた。 しかしキリは何でもありませんと、僕から視線を逸らしただけで、それ以上は口を閉ざした。 言いたくないのならと、僕は深く追求することはしなかったが、今ではそれをひどく後悔している。 「せやから無理言うたやろ」 「うるせぇ」 「何やねんその手。おーおー健気やなー自分」 「ふんっ……」 見てしまったのだ。 聞いてしまったのだ。 そして、気付いてしまったのだ。 「どうしても言うなら付き合ってやらんこともないで?」 「……」 「ホラ、ちゃんとお願いしいや。生意気やで、1年坊主」 「……ちっ」 昼休み、中庭で仲睦まじく会話をしているキリと鬼塚。 それを目撃した僕は咄嗟に物陰に隠れてしまい、出るに出られず、そのままふたりの会話に聞き耳をたててしまったのだ。 会話の中で、鬼塚は僕の疑問の核心に躊躇いなく触れていて、キリもそれを甘受しているように見える。 ここ1週間、日々増えていく傷跡をそれとなく尋ねてみても、一貫としてキリは僕に何も答えてはくれなかったのに、だ。 そして―――。 「…………付き合ってくれ……」 キリの口から紡がれた言葉。 普段鈍感だと揶揄されることの多い僕でも、それが何を意味しているのかはすぐに分かった。 (……え……) ただ脱力。次に虚無感。 その他に感じたのは突き刺すような心臓の痛みだけ。 「しゃーないな。ほな早速明日うち来いや。丁度おとんもおかんもおらへんし」 「……分かった」 「買い物もするやろ?」 「ああ……」 「ほんなら、明日駅前に1時に待ち合わせな。明日は土曜やからセールしとるし、色々安いで」 僕はただ涙を流しながら、呆然とふたりを見つめることしか出来なかった。 あからさまなデートの約束さえも聞いてしまい、視覚から、聴覚から、悲しみがじわじわと入り込んできて、僕の瞳を執拗に揺るがす。 見てしまった。 聞いてしまった。 そして、気付いてしまった。 キリの隠し事。 キリの本当の心の内。 「……キリ…………」 キリはもう、僕を愛してはいないということ。 *** その後は散々なものだった。 授業も校内パトロールにも全く集中出来なくて、傷ついた心がただ声を出して泣くばかり。 何とか従事をこなし、今はキリと共に家路についてはいるものの、会話と呼ぶに相応しいものは何ひとつない。 視界を焦がした情景が、鼓膜を揺らした振動が、脳をぐちゃぐちゃに掻き乱して止まらなくて。 幾度も零れそうになる涙が、心の痛みを緩やかに吐露しようと全身を刺激する。 不安定な僕にキリは不思議そうな眼差しを向けている。 僕はそれを真正面から受け取めることが出来なくて、俯いてしまうばかりだった。 「会長?何か、ご心労ですか……?」 「いや、……何でもない」 「……本当ですか?」 「ああ」 ううん、嘘。 気になって仕方ない、キリの心。 キリはいつから鬼塚が好きだったのだろう。 キリはいつから葛藤していたのだろう。 キリはいつから、僕を愛せなくなってしまったのだろう。 渦巻く懐疑は僕の心を容赦なく傷つける。 必死に堪えている涙がついに溢れ出しそうになった。 「それでは、俺はこれで」 「ああ」 しかし間一髪、自宅に着いた。 門を開け、敷地に踏み入る。 たった一歩の境界線の向こう側で、キリはただじっと僕を見つめていた。 どこまでも真っすぐなキリの視線が、僕の瞳を更に揺らす。 「いつもありがとう。キリも気をつけて」 「はい……」 「…………キリ?」 悲しみに揺らぐ内側を悟られぬ様に門を締める。 ただ、いつもの様に労いの言葉をかけても、キリは依然として僕を見つめたままだった。 次第にキリは何かを言いたげに唇を震わせ始め、気まずそうに視線を逸らす。 「……キリ、どうした?」 「いえ、……その……」 らしくない、歯切れの悪い言葉。 何か言いたい事でもあるのかと口を開こうとした瞬間、フラッシュバックしたのは、昼休みの光景。 (……ぁ…………) 鬼塚と談合するキリの姿。 ふたりだけが知っているキリの両手の秘密。 軽やかに交わされた、明日の約束。 「……っ……」 唇が渇いた。口内が渇いた。 そのまま肺まで干からびて、吸い込む空気が掠れた音を鳴らし始める。 カラカラに渇いた唇からは、何ひとつ言葉を紡げない。 呆然と立ち尽くす僕と戸惑ったままのキリ。 しかし刹那、キリは踏ん切りをつけたのか、再度真っすぐな瞳を僕に向けた。 「会長っ」 「……何だ?」 「日曜日、その、えっ……と。……ピ、ピクニックに行きませんか?」 「え……?」 脈絡のない誘い。 キリは不安そうに僕を見つめていて。 「あ……あぁ。楽しみにしている」 何とか声を絞り出し、微笑みを貼付けて返事を返すと、キリは安心したように眉間の力をそっと解いた。 「では、日曜9時にお迎えにあがりますね。持ち物等のご用意は不要です」 「ああ、分かった」 「それでは失礼します!」 キリはそのままくるりと振り返り、家路へと戻っていった。 その後ろ姿が見えなくなるまでキリを見つめて、僕は自室へ向かう。 後ろ手に部屋のドアを閉めて鍵をかけると、無意識に肺が酸素を求めて、体が深呼吸を始めた。 額から流れる汗が顎を伝って、フローリングの床にポタリと落ちる。 「……はぁ、ぁ……」 先程の、何かを言おうとしていた、キリの戸惑いを映した顔が脳を支配する。 僕はまぶたをきつく閉じて、深い呼吸を繰り返すばかり。 「……はぁっ……は……」 流石に分かる。鈍感な僕にだって。 あんなあからさまな迷い。 紡がれるはずだった言葉。 キリが言い淀んでいたのは、きっと決別。 鬼塚との約束を前に、僕との関係にけじめをつけようとしていたのだろう。 だけど僕が落ち込んでいたから。 優しいキリは追い打ちをかけまいと、僕に気を使ってくれたのだ。 ピクニックなど、何の関連性もない話題を出して、あくまで僕に明るく振る舞おうと努めた。 準備が不要のピクニックなどあるものか。 きっと待っているのは、辛辣な別れ。 (……それならいっそ、僕が) (……僕が、キリを) 浮かんだのは自己犠牲の打開策。 だけど、もうそうするしかない。それしか思い浮かばない。 だってキリは優しいから、僕を前にしたらきっと、僕を傷つけまいと、優しい言葉を必死で探すのだろう。 戸惑うキリの表情が再度浮かぶ。 そしてそれは、また見ることになると、容易に想像出来る。 それならいっそ、僕が言ってしまえば良い。大丈夫、問題ない。 いつもの会話の延長に、さりげなく忍ばせればいいだけ。 さっきだってちゃんと笑うことが出来たのだ。 日曜日になったら同じようにキリに笑って、今までありがとう、さよなら、鬼塚と仲良くな、って告げるだけ。 ただそれだけのこと。 「……はは…………」 笑顔を作る。笑ってみる。 だけど、こんな時に脳裏に浮かぶのは、さっきの戸惑ったキリではなくて。 「…………は……」 僕の大好きなキリの姿。愛しい愛しい、キリの笑顔。 (……な、んで…………) 何故なのだろう。 こんなにも愛しくて。 こんなにも痛いのは。 「……っ……」 痛くて。痛くて。ただひたすらに痛くて。 壊れそうな程に、胸が苦しい。 「……あ、れ…………?」 涙がポロポロと溢れ出して、足元に水溜まりが生まれた。 それは次第に大きな泉となって、僕の全身を容易く飲み込む。 「……っ…………」 何もかもを忘れて、僕は大声を出して泣き叫んだ。 「……あ、ふぁぁ……、ふぁぁん……」 脳が心臓が全身が、キリを想って、キリを求めて。 傍にいて欲しいと、ただひたすらに願っていた。 嫌だ。離れたくない。傍に居たい。 こぼれ落ちる涙と本音。 どこまでも利己的なそれは、すべて愛情の傍らにある感情だ。 脇目もふらずにキリを愛し続けた、その産物。それなのに。 どうして?いつから? いつからキリは、僕を愛せなくなってしまったの? 「……キリ……ッ…………」 僕はありのまま、全身全霊でキリを愛していただけだったのに。 何が駄目だったのだろう。 僕の何が、キリの心を離れさせてしまったのだろう。 「……っふ、ぅ、……ぅぅ……」 ねぇ、キリ。好きだ。好きだよ。好き。 さよならなんて、したくない。 したくないけど。 それでも、君が望むなら。 「……さよ、なら……っ……」 僕は別れの言葉をそっと泉に浮かべた。 そしてそれがゆっくり沈んでいく様を、涙に濡れた眼差しで、ただ一心に静観している。 → |