無防備に秘め事


朝、家までキリが迎えにきた際、何かが違った。
髪型も服装も歩く位置も一緒で、気のせいかとも思ったが、やっぱり何かが違っていて。


(……なんだろう)


そんな疑問を抱えたまま放課後を迎えた。
多々あった生徒会の仕事も残すは僕の承認だけとなったので、女子には帰宅を促し、大量の書類に目を通して判を押していた。
細かな活字が決して良いとはいえない僕の眼球を刺激し続ける。少しの息抜きも兼ねて、生徒会室ではもうすっかり定位置となった、僕の後ろに佇むキリを振り返った。


「……どうしました?」


振り向いた僕にキリは首を傾げる。


(…………あ)


そんなキリの表情をじっと見つめていたら、朝から抱えていた違和感の正体に漸く気付いた。
キリの目の下に、うっすらと浅黒い隈が出来ていたのだ。


「キリ、隈があるな」


僕が指摘するとキリはキョトンと瞳を丸めて、恥ずかしそうに苦笑いをこぼす。


「……そうなんです。ちょっと最近、夜更かししてしまってて……。お恥ずかしい」
「一体何をしているんだ?」
「日本史を読んでいるんです。うちに代々伝えられているものなんですが、これがちょっと楽しくて……つい時間を忘れてしまうんです」


依然として苦笑いのまま、キリは目の下の隈を撫でた。
毎朝早い時間に僕を迎えにきて、帰りも僕を送ってからキリは帰宅している。
キリは自分の時間を割いてまでして僕の傍に居るわけであるから、例え無計画にキリが夜更かししている事実を聞いても、僕はキリを手放しで咎める気にはならなかった。


「……後は僕ひとりで平気だから、キリは先に帰ってもいいぞ」


おそらく反論されるであろうとは思いながらも、キリを労り、声をかける。
案の定キリは首をぶんぶんと勢いよく左右に振り乱して僕の言葉を跳ね退けた。


「会長が職務に勤しんでいるのに帰るわけにはいきません!」
「しかし、寝不足だろう?僕の事はいいから、今日くらいゆっくり休め」
「いいえ!これくらい何ともないですから!」


やはりというべきか、結局水掛け論となってしまった。
キリが僕を想ってくれているのはしっかり伝わってくるけれど、やはり僕としてもキリが心配な事には変わりない。
たまには自分の趣味の時間を尊重してほしいとも思うのだ。


「それなら、僕が終わるまでそこのソファーで寝ていろ」


拉致があかないため、僕は最大限の妥協を示した。


「そんな……」
「キリ、これは命令だ」
「会長……!」
「もし背くというなら僕は金輪際、君と口を聞かないからな」
「…………ずるいです……」


子供のような理屈を言い放ち、つんと正面を向いた僕に、キリは困ったような、なんとも情けない声を漏らした。

しばらく沈黙が流れる。
しかし、僕がひかないことを悟ったのか、キリはしぶしぶといったようにソファーまで移動した。


「……かいちょう」
「寝ろ」
「……でも」
「寝るんだ」
「……」


キリはこちらを振り返って子犬のような瞳を向けている。
きっと自身のポリシーと僕の命令との間で葛藤しているのだろう。
でも僕にとってそんなものは関係ない。
そんなキリの背中を押すため、僕はキリに満面の笑みを向け、口を開いた。


「眠れないのなら、ツバキエクスプロージョンを眠れるまでお見舞いしてやるから」
「……寝ます」
「分かれば良い。ゆっくり休め。お休み、キリ」
「……お休みなさい」


キリは子供のように口を尖らせたままソファーに寝転がり、はみ出してしまう足はひじ掛けに乗せてお腹の上で手を組んだ。
その後、キリが瞳を閉じたのを確認して、僕はまた手元の書類に目を通し始めた。



***



「……よし」

漸く最後の1枚に判を押し終え、軽く伸びをする。
壁に掛かった時計を見やると、後10分程で19時を回るところだった。

これだけで1時間は費やしてしまっている。
意外と時間が掛かってしまったなと思ったが、それもそのはずだ。
僕が書類に目を通している間、キリの方からは物音どころか寝息すら聞こえず、本当に静かだったのだ。

まだ寝ているのだろうか。
僕は音を立てぬよう、キリの元へそっと近づいた。
キリは少しも動くことなく、依然として瞳を閉じたままだ。
そのまま顔の前にしゃがみ、寝顔をじっと見つめる。
いつもは気を張っているために小さなしわが刻まれている眉間も、今は全く力が入っておらず、唇は薄く開いていて、頬はそっと染まっている。
幼子が昼下がりに昼寝をしているような、そんな無防備な寝顔だ。
胸がきゅんと高鳴ったのが分かった。


(……寝顔、……可愛い……)


僕より高い背丈や大きな手、並外れた身体能力等で忘れてしまいがちだったが、何だかんだ言ってもキリは僕より年下で、まだ16才の男の子なんだよなと実感した。
ゆっくり立ち上がり、目にかかっている少し長い前髪を左手で梳く。
そうして顔を露にすると、あどけなさがより一層際立って、僕の胸もより一層きゅんっとあつくなった。


(…………可愛い……)


愛しさに誘発されて、僕はそのまま左手でキリの頬を包み、唇にそっとキスを落とした。

柔らかなキリの感触が左手と唇を介して鮮明に伝わってくる。
唇を離すと、直ぐ近くにあるあどけないキリの寝顔に、羞恥心と愛しさがどっと溢れ出した。
普段なら照れが顔を出し、こんなこと絶対に出来ない。
けれど、愛しい。
頬がじんわりと熱を持ちはじめたのが分かった。


するとキリのまぶたがピクリと動いた。
そのままゆっくりと瞳が開かれ、何度かのろのろと瞬きをしている。
そしてまだ夢うつつのキリと目が合った。


「お、……おはよう」
「……」


この時間におはようはないだろうとは思いながらも、反射的に言葉をかけた。
キリはトロンとした目で僕をぼんやりと見つめていたが、この数秒の間に覚醒したらしい。驚いたようにゆっくりと目を見開いた。
そしてその所作とは対称的な素早さでソファーの背もたれの裏にしゅっと回り、しゃがみ込こんだ。

寝起きとは思えないほどの素早い動きに驚いた。
しばらくしてキリは背もたれに両手をついて目だけを出し、僕と壁に掛かった時計を一瞥して、再度目を大きく見開いた。


「……ど、どうした?」
「あ……すみません。……その、えっと、……おれ、寝てました?」
「あ……、ああ……多分」
「……うわぁ…………」


肯定の返事を返すとキリは力無く呟いて顔を歪め、僕から視線を逸らした。
そして深いため息をつき、前髪をくしゃりと握りしめて俯く。
僕としては何がそんなに気に食わないのか全く分からず、疑問符が浮かぶばかりだ。


「別に、僕が寝ろと言ったから……」
「いえ、そうではなくて……」
「じゃあ何だ?」
「……ゃ、……その、……誰か近づいたら、空気とか、匂いとか、気配とかで分かるものなんですが……」
「……おお、ふ……」
「今、気づいたら、会長が目の前に居て……。しかも、俺に触れてらしたから……、びっくりして…………」


人前で熟睡するなんて、物心ついてから初めてです。まだまだ俺も修業が足りませんねと、キリは再度ため息をついた。

しかし裏腹、僕はただ言葉を失った。
というか、キリは今自分が何を言ったのか、ちゃんと理解しているのだろうか。


(だって、それって……)

(僕への警戒心が、無意識に薄れているってことだろう?)


もうただの殺し文句にしか聞こえない。
つまり、キリの可愛い寝顔が見られるのは、恋人である僕だけの特権なのだ。
キリの深い部分から受け入れられているような気がして、微笑みがこぼれると同時に頬が再度熱を持ち始めた。
両手で頬を包んで熱をごまかそうにも、上がる体温は止められそうにもない。


「……会長、顔赤くないですか?ていうか何であんな近くに……?」
「……いっ、いや、気にするな……!それにしても、目覚めてからの俊敏な動きは流石だったぞ!」
「それは……恐縮ですが……。……会長、何か笑ってません?」
「気のせいだ!」


キリは尚も訝しげに僕を見る。
先程のあどけなさがすっかり消えた、いつものキリだ。
だけど、つんと突っ張ったこの仮面の下に、僕しか知らないとっても可愛い顔が隠れていると思うと、愛しくてやっぱり頬は緩んでしまう。
仕方ないだろう。本当に可愛くて、可愛くて、……可愛かったのだ。
絶対に本人には言えない気持ちが溢れ出して、ふふ、と声が漏れる。


「……笑ってますよね確実に……。何ですか?気になります」
「いや……、その……ほら、あれだ。……キリ、世の中には知らない方がいいって事が沢山あるんだぞ」
「……どういう意味ですか?もしかして俺が寝てる間に何かあったんじゃないですか?」
「だっ……だから知らなくていい!」
「何で焦って…………あ!まさか会長、俺が寝てるのを利用して抜き足の修業を!?クソッ……会長が業に励んでいるというのに俺は……!」
「違う!」


どこか別の方向に向いてしまったキリの思考。


(……キリの寝顔が可愛くて、愛しくて、だから、思わずキスしてしまったんだよ)


そう本当のことを告げたなら、一体どんな顔をするのだろうか。

絶対に言わないけれど。
というよりも、絶対に言えない。


(キリのこと大好きみたいじゃないか……)


まあ実際、その通りなのだけど。


「今度俺に抜き足の極意を教えて下さい!」
「そんなもの知らん!」


尚も勘違いを続けるキリを適当にあしらいながら、いつか僕への警戒心がすべて取り払われて、色々なキリが沢山見られる日がくることを心の片隅でそっと願った。





fin





(……キリの寝顔が可愛くて、愛しくて、だから、思わずキスしてしまったんだよ)


そう本当のことを告げたなら、一体どんな顔をするのだろうか。





キリ「鼻血出しておっきします」





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