紫陽花


不揃いな音の中を安形とキリは歩んでいた。景色を濡らしているそれは彼方まで広がる空を灰色に塗り潰し、何時もの帰り道を薄暗く染めている。
残響などない。残る間もなく、次から次へと静かな音は生まれていく。夏を待つ一時の五月雨。地面に打ち付けられた雫は所々に水溜まりを作り、ふたりの無表情をおぼろ気に映している。
その小さな水鏡を容赦なく踏みつけながらふたりは歩く。だが、雨だというのにキリは足音ひとつも立てる事は無かった。
ひっそりと抜き足を続ける隣で時折、ひとり分の足音が高い音を立て、それに伴い雫が跳ねる。
ふたりのズボンの裾が微かに湿っていくものの、ふたりともそんな事は気にも留めていない様だった。
ただ歩み、ただ進む。鬱陶しい程の湿度の中を、ふたりは歩く。通りすぎる景色の片隅に、紫色の紫陽花が雨に濡れながらしっとりと咲き誇っていた。


「紫陽花ってよぉ」
「あ?」
「地面の成分で花の色が変わるんだぜ」
「へぇ」


花を視界に捉えた安形は口を開いた。何処かで覚えた些細な情報。他愛もない会話だ。
安形は自らの知識を他人にひけらかすような人間ではない。


「雨で土ん中の何かが溶けて、それが花の色を決める遺伝子に影響すんだってよ」
「何かって何だよ」
「忘れた」
「意味ねぇー」
「まぁいいじゃねぇか。傍にあるもんで花の色が変わるってのは、何だか不思議なもんだよな」


雨に濁る帰路を見つめながら、ふたりはポツリポツリと会話を続けた。
それは雨が振りだした時に生まれる物静かな雰囲気に似ていて、けれど、ふたりの会話はそれ以上降りしきる事は無かった。

止まない雨。キリはその中で、ただひっそりと安形の言葉を反芻していた。
傍にあるもので花の色が変わる。その事実には何処と無く赴きがあり、梅雨を好んで咲き誇る紫陽花が、キリには一際美しいものである様に思えた。

そこでふと、水鏡にキリが映る。ゆらゆらと揺れながら、見慣れた無表情が映っている。
その表情が昔に比べて柔らかくなったと感じるのは、きっと気のせいなどでは決してない。


「……花の色だけじゃねぇな」
「あ?」
「変わるのは」


キリは呟く。足を止めたキリに安形が振り向けば、キリは足元を見つめたまま立ち尽くしていた。

人も変わる。傍に居る人間によって、傍にある環境によって、染まっていく。美しくも、その逆にも、簡単に。
かつてキリがそうだった様に、人は何色にも容易く染まってしまうものなのだ。


「……そうだな」


安形は目を細めてキリを見やった。数歩の距離の先で過去を思う彼を、ただ一心に。
音は鳴り続ける。ふたりの間に容赦なく、幾千の雫が降りしきる。


「お前、可愛くなったもんな」
「……捻り潰すぞ」
「冗談だよ……」


安形は冗談混じりに言ったものの、それは決して嘘ではなかった。安形から見ても、キリは以前に比べて庇護欲のような、年相応の可愛らしさを感じる節が増えていた。
事実、たった今顔を上げて安形を睨み付けたキリだったが、その瞳は明らかに柔らかさを帯びていて。
視線が雨に揺らいだせいだけではない。キリは変わった。今の彼は鮮やかに、美しい色に染まっている。

変わらずにキリを見つめる安形。そんな彼にキリは舌打ちをひとつ鳴らして、水溜まりを跨いだ。
安形の傍へ音もなく歩み、そして雨を遮る彼の傘を左手で掴むと、それを素早く奪う。


「…………え?」
「……」
「……あのー、キリさん?返してくれませんかね?冷たいんですけど」


依然として容赦のない雨が、安形の元に降り注いだ。次第に彼の黒髪が力を無くし、滴る雫が肌を流れる。

そんな安形に、キリは思わず見とれてしまった。
驚愕に瞳を見開き、その光景に心を揺さぶられてしまっていた。
可愛いなどと自分を揶揄した安形に反撃をしたつもりが、そこで思わぬカウンターをくらってしまったのだ。雨に濡れる安形の色気が、尋常じゃない。

熱を帯びるキリの頬。そこに鬱陶しい程の湿度が重なり、息苦しさがキリを襲った。
不快感を断ち切るようにキリは再度舌打ちをして、左手に持つ傘の柄を安形の胸に押し付けた。


「……帰る」
「うん、いや、今帰ってんじゃん」
「うっせーよ。黙っとけ」


安形が傘を受け取った直後、キリは一滴の雫をその場に落として姿を消した。

何だアイツと安形は呆気に取られる。だが、彼は決して見逃していなかった。
ふわりと染まったキリの頬を。降りしきる雨とは、咲き誇る紫陽花とは対称的な、その色。暖かな、赤い、頬の色を。


「…………可愛くなったよなぁ、ほんと」


傍にあるもので変わるのは、花の色だけではない。人も同じ。変わっていく。何色にも、染まっていく。

くすりと悪戯な笑みをこぼして、安形は改めて帰路についた。雨に濡れた彼に傘など最早無意味であったものの、特に気には留めていない様だった。
不揃いに鳴り響く音の中、ひとり分の足音が時折高い音を立てて、水溜まりを弾けさせる。

片隅に咲き誇る紫陽花がその花びらから雫を流した。数ある花の中でもこの花は、やはり一際雨が似合う。





fin





水も滴るいい男な安形さんを書きたかっただけです(爆発)





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