リビングに踏み込んだ俺に掛けられたのは、ひどく抑揚のない声だった。


「何で来た」


安形は眠っていなかった。電気を付け、ソファーに浅く腰掛けて、両手を組んで俯いていて。
俺の方を振り向く事なく、安形はずっと項垂れている。少し長めの黒髪と、しっかりとした背中が見えるだけで、その表情は窺えない。


「頼む……、部屋戻ってくんねーかな。今、キリの顔まともに見られない」
「あが、た……」
「頼むから、分かって」


淡々と紡がれた言葉に、ズキン、と、痛んだ。
感じた事のない痛みだった。
呼吸が乱れていくのが分かる。けれど、俺はこの痛みから逃げてはいけないと、右の拳を握ってそれを堪えた。

これは俺の痛みじゃない。目の前に居る安形の痛みだ。
無我夢中で刃を突き立て、俺が安形に与えた痛み。傷付けたのは頬だけではなく、安形の心もそうなんだ。
だから逃げてはいけない。俺は安形にちゃんと向き合わなければいけないんだ。

漸く分かったから。
渦巻いていた感情に、名前をつける事が出来たのだから。


「安形……」
「呼ぶな」


しかし、安形が示したのは拒絶だった。
尚も変わらず淡々と、安形はこちらを見向きもせずに、感情のない声で言葉を紡ぐ。
静かなそれに気圧され、俺は乱れていた呼吸が一瞬止まった。心地好いはずの安形の雰囲気が、今は微塵も感じられない。
安形の背中が醸し出すのは、ひどく冷たい拒絶だけ。


「部屋戻れって。頼むから」
「……っ……」
「気が狂いそうなんだ。同じ事何度も言わせんなよ」


じわじわと入り込んでくる無情な言葉。安形の持つ力に支配されそうになり、唇を噛んでそれに堪える。
流されてはいけない。いつもみたいに平伏してしまったら、結局何も変わらないから。
決意を胸にそっと秘め、右手に力を込めて安形を見据える。
項垂れた黒髪。拒絶を示す広い背中。全くもって変わらないその姿に、心臓がわかりやすい程に大きな音を立て始めた。
そして血液の流れに乗せて、次第に広がる焦燥と苛立ち。こちらを見向きもせず、背中を見せる安形に対して、それらは募っていくばかりで。


「……ほんとは、帰って欲しいんだ」


そして、爆発した。
追い撃ちをかけるように聞こえた言葉は、拳を握り締めて堪えている俺の苛立ちを助長しただけだった。


「……っ勝手な事言ってんじゃねーよ!」


安形の背中に声を投げる。
苛立つ背中。他人を意のままに操る安形の、常に俺の2年先を歩いている安形の背中だ。
そのふたつと共に射るような眼差しをもって、俺をいつも掻き乱す安形のそれは、相も変わらずむかつくだけだ。


「来いっつっといて今度は帰れって、結局ヤれなかったら意味ねぇってか!それらしい事言ってほだしたくせに、結局アンタにとって俺はヤれるかヤれないかでしか価値を持たねぇんだろ!」
「……違う」
「いつもそうだ!アンタはいつも口八丁で俺を丸め込んでっ、俺をアンタのペースに巻き込んでっ……!ふざけんな!俺はアンタのおもちゃじゃねぇ!ままごとしてんのはどっちだよ!」
「……違ぇって」
「何が違うんだよ!意味分かんねぇよ!大体、何でこっち見ねぇんだよ!何なんだよマジで……!説得力ねーよ!」


むかつく。むかつく。
結局翻弄されてばかりで。
それでも俺は、この男が好きなままで。


「むかつくんだよ……!」
「……」
「アンタの背中はっ、むかつくんだよ……!」


息継ぎも儘ならない程にまくし立てて、呼吸をするのが苦しくなった。
それなのに安形は相変わらず、その背中を俺に見せたまま。
悔しい。悔しくて、悔しくて。安形に想いが伝わらなくて、何ひとつも届かなくて、思うように言葉を紡げなくて。こんな事を言いに来た訳じゃないのに。
乱れた呼吸を抑えるために俯くと、自分がとても小さな存在に思えた。


「ごめんな……」


ポツリと、落ちた、聞こえた声。
安形は何も変わらぬまま、静かな謝罪を俺に告げた。
それはこれまでとは違い、少しだけ体温を感じるような、そんな暖かみを孕んだ声色で。
その変化に訝しみ、顔を上げて安形を見やった。安形の見目はやはり、何ひとつも変わってはいなかったけれど。


「俺はそんな風にお前を見た事は一度もねぇよ。言っただろ。俺はお前と真剣に向き合ってるつもりだ」
「でもっ……」
「勝手な事言ってんのは分かってる。でもな、俺はお前が思ってる程、出来た人間じゃねぇんだよ」
「……」
「止まんねぇよ、今の俺は。どれだけお前が俺を傷だらけにしようが、どれだけお前が泣き叫ぼうが、俺はお前の顔見たらきっと抱きたくなっちまうと思うんだ。だから、歯止めがきく内にどっか行って欲しい。これ以上お前の事傷付けたくねぇから」
「そ、んな……」
「お前が嫌がってるって分かってても、それでも俺は、お前を抱きたい。お前に触れて、声が聞きたい」
「あがた……」


はぁ、と、安形が息を吐いたのが聞こえた。
呆れた末のため息とは違う。安形の苦悩と切なさに染まった、悲しい色を持つため息だった。


「名前、呼ぶなって……。顔見たくなるだろ……」


そして消え入りそうな程に小さな声が、俺の体を戸惑いに包んだ。

こんなに弱々しい安形を見るのは初めてだった。
だって安形はいつも余裕に満ちていて、俺を楽しげに翻弄するばかりで、だから。


(……違う……)


違う。違うよ、安形。
嫌がってた訳じゃないんだ。安形に触れられる事は恥ずかしいけど、恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。

ただ、俺は、俺は―――。


「………………怖かったんだ……」


渦巻いていた感情の正体。それは紛れも無い恐怖心だった。幼い頃からの鍛練の末に、忘れかけていた久しい感覚。
目の前の存在が持つ何かに怯え、恐れるという人間の本能。

きっと俺は怖かったのだ。何も言えないまま、何の抵抗も出来ないまま、安形に流されてしまう事が。
熱に浮かされて、安形ひとりしか見えない、安形ひとりしか感じない暗がりの中に、安形に掌握される自分が居て、けれど、安形は何だか別人のようで。

このまま流され、行き着く先は何処なのか、そこには一体何があるのか。
それは日常の中に存在する有り触れた疑問や不安であるけれど、それは安形を想う気持ちと羞恥と共に混ざり合って、混乱を生んで。
やがて想いも羞恥をも越えたその感情は、無意識下で俺のすべてを支配した。
そして安形の頬を傷つける事で、それは跡形もなく消えていったのだ。


「……キリ?」
「怖かったんだ……、俺。安形が何か、知らない奴みたいに思えて……」
「……」
「あんな風に触れられんのなんて初めてで……、意味分かんねぇ声も出るし、何かもう、訳分かんなくて……。何かを怖いって思うのなんて、忘れてたから……」


吐き出す声は震えていた。
だけどここで素直にならなければ俺はきっと、これからもずっと安形の背中を見続ける事になるのだろうと、そう思って。
子供が話すような喋り方で、俺は一心に吐露した。
安形の顔が見たいから。
いつもの安形の雰囲気に、これからも包まれていたいから。


「安形、ごめん。傷付けて、ごめん……。俺……、アンタに触られんの、嫌なんかじゃねぇよ……」
「……」
「ただ、もう少し……、ゆっくり……っ……」


言葉がポタリと遮られた。
頬を伝って零れたそれは、自覚と共にせきを切って溢れ出して。
声を押し殺して静かに泣いた。止める術など持ち合わせていない。

安形の背中が滲んでいる。大っ嫌いな、安形の背中が。
ゆらゆら揺れて、輪郭がぼやけて、そして無償に、顔が見たくなった。恋しくなった。安形に触れて、触れられたいと、そっと。


「あがた……。好きだよ……」


苦しくて、苦しくて、俯いて涙を拭っても、それは一向に止まらなくて。
安形を想う気持ちが同じ位に溢れていて、それもやっぱり止まらなくて。
ぐるぐると巡る想いの丈が涙となって、顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
ごめん、好き、ごめん、好き、苦しい、切ない、痛い、むかつく。

だけど、それでも俺は、安形が好き。











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