来なきゃ良かった。率直に思ったのは眠りにつこうとしたこの時。
何もしないという安形の言葉を信じ、同じベッドに入ったまでは良かったのだが、所詮口約束は口約束でしかなかったのだ。


「ざけんなてめぇブッ殺すぞコラ!」
「ってぇ!」
「アンタ何もしねぇっつったじゃねーか!堂々と約束破ってんじゃねーよこのクソ野郎!」
「だからって蹴るこたねーだろ!?痛いんですけど!キリ君ねぇ!」
「知るか!一生悶えてろこの禿げ!バーカ!」
「言葉の暴力って知ってる!?腹も心もなんか痛い!」


10分もしない内に安形は俺に覆いかぶさって唇を奪い、顔の輪郭を撫で、そしてその手を下へと滑らした。
薄暗い部屋と混乱する思考の中、安形の指先は布越しに突起へ触れ、刹那、俺の脳は真っ白に。
気付けば俺の右足は安形の脇腹にクリーンヒットし、その体を正面へ吹っ飛ばしていた。


「ほんっと意味分かんねぇ!約束のひとつくらい守りやがれよ!」
「仕方ねーだろ!キリが可愛い過ぎんだから!何かこう、ムラムラしちまってよぉ」
「はああぁ!?ふざけんなボケ!」


苛立ちのまま、俺は手元にあった枕を悪びれもない安形へぶん投げた。もちろんこれもクリーンヒット。
安形の顔面には弾力のある枕が低い音と共にめり込んだ。

部屋には興奮によって乱れた俺の呼吸が不規則に、そして静かに響いている。
それが落ち着いてきた折、安形は枕を除け、困ったような表情で頭をかいた。
いつものようにセットされていない黒髪は力無く垂れ、さらさらとなだらかに揺れている。


「……つーかさぁ」


ぼそりと、安形は声をあげた。冷静で、冷淡ささえも感じられる程、抑揚のない声だった。
その違和感に触れ、体が強張る。悟られぬように視線を合わせると、安形は真っ直ぐに俺を見据え、言葉を続けた。


「……何でそんな拒むわけ?流石にへこむんだけど」


そう言って安形は少しの距離を詰め、俺の瞳に映る景色を支配した。
あまり広くはないベッドの上だ。あっという間の出来事だった。
突如として近づいた安形に、そして紡がれた言葉に反応が遅れ、気付いた頃には視界に安形と薄暗い天井が映っていて、両の手首が安形の体温にすっぽりと包まれていた。


「あ、がた……」
「ありきたりな事言っちまうけどさ、俺はやっぱキリが好きで仕方ねーからさ、だから触りたくなんだよ。色んな顔見て、色んな声聞いて、もっと色んなキリを知りてぇって思う」
「で、……でもっ……」
「何でそこまでして拒むんだよ?そりゃ何もしねぇって約束だったけどよ、キリは嫌なのかよ。こうして触れる事、触れられる事。互いを知る事、知られる事。これってさ、大切な事だろ。キリはそれすら、嫌な事だって思うの?」
「……っ……」
「そんなのってねぇよ。ままごとしてんじゃねぇんだから。俺は結構本気でキリと向き合ってるつもりなんだけど」


そして安形の唇が言葉を途切れさせた瞬間、真っ直ぐにそれが降りてきて。反射的にまぶたを閉じると、直後、重なった。
唇同士を絡ませて、俺の声を、言葉を、呼吸さえも奪うように、何度も何度も口づけられて。
舌を差し込まれたと同時、戸惑いのまま空をさ迷っていた指先さえも、安形は手を滑らせて絡ませた。
ぎゅっと強く、それでもどこか優しさを残すように重なって。唇が、舌先が、指先が、体温が、そして想いが。

まぶたの先に安形が居る。それを瞳ではなく、肌で感じて。
極度の緊張と、そしてやはり同じだけの心地好さを、俺は確かに感じていた。


「キリ……」


唇の体温はそのままに、安形の右手が離れて、俺の頬の輪郭をなぞった。その後を追うように、安形の唇が流れていく。
行き着いた先は俺の耳。カフスの付いた表面ごと舐められ、舌先が内側を犯していく。
普段なら聞き逃してしまう程の小さな水音。それが直接俺の中へ響き渡って、忘れかけていた感覚と羞恥が心をじわじわと支配していった。


「あ……、あがた……」
「キリ、好きだ……。キリ……」
「ひ、しゃっ、しゃべんなっ……」
「キリ、好き。キリも、俺の事、好きだろ?」
「言わせんなっ……」


くちゅくちゅと耳を犯す舌先に、吐息混じりの安形の声に、体中の力が抜けていく。
ぐるぐると駆け巡る言の葉ひとつひとつに、抵抗の術を奪われて。
薄く開いたまぶたの端には、さらさらと揺れる黒髪が。感じる雰囲気は安形のそれなのに、視界に揺れる安形の姿は、鼓膜に響く吐息と声は、俺の知らない誰かのようで。

心に渦巻く見えない何か。確かに存在する不透明な感情。
だがそれを理解するより先に、安形の右手はまたも頬の輪郭をなぞり始めた。
頬を、顎を、喉仏を、鎖骨をなぞって。
そして、触れた。


「……ひっ……」


その瞬間、体が一度大きく跳ねて、血液が循環を早めていった。
服の上から擦られて、震えた唇から吐息が漏れる。
流れるように安形は服の裾を捲り上げ、今度は確かな体温を直接先端に触れさせた。


「あっ……!」
「……可愛い、たってる」
「や……、め……」
「もっと見せて。もっと聞かせて、キリ……」
「んっ……!」


左耳に直接響く吐息と声。胸のわだかまりがじわじわ膨らむ。
それでも安形はお構いなしに、左耳に重ねていたそれで今度は触れた。
柔らかな舌で包まれて、小刻みにゆっくりと舐められる。呼吸が乱れて、瞳が涙に濡れるのが分かった。
唾液でぬるりと湿ったそこを安形は親指で擦り、反対側にも唇を滑らせる。
舌と指を執拗なまでに動かして、安形は時折ちゅっと小さな音をたてて吸い付いた。

左手の甲で口元を覆い、声を抑えるも、舌先と指先がぬるぬると与える刺激はそれを許してくれそうにはない。
抑えきれなかった高い声がひっそりとこぼれ落ちていく。俺のものじゃないような、別人のような高い声が。


「んっ……、ん……ぁ……」
「キリ……」
「ふっ……、あ、がた……、も、やめっ……」
「無理だって。可愛い過ぎ……」
「あっ……」
「キリ……。このまま、全部預けて、俺に」
「あがたっ……」


安形に掌握されていく。溶かされて、蕩けて、何もかも分からなくなっていく。
そして、それは俺の心に渦巻く何かを、ひっそりと静かに掻き立てて。

安形は好きだ。
好きで、大好きで、だから今も、簡単に退けられる安形の体を、体温を、俺はそっと受け入れて、感じている。

だけど違う。違うんだ。分からないんだ。不透明なんだ。
安形の心地好い雰囲気に惑わされてしまっているだけなんだ。
何が俺を引き止めて、何が俺をこんなにも躊躇させているのか。それが全く分からなくて。
それは常々安形に感じている、抗う事の出来ない力に対する苛立ちにも、決して埋める事の出来ない差に対する焦燥にも似ていて。
それでもやはり、全く別の感情。だからこれが何なのか、全くもって分からない。

好きだよ。好きだよ。本当は全然嫌じゃない。安形の傍に居られる事は、安形の雰囲気に包まれる事は、俺にとって何よりの幸せだから。
だけど、違うんだ。分からないんだ。胸に渦巻く不透明な何かが分からなくて、だから、まだ先に踏み込めない。
俺はまだ幼いままで、すべてを受け入れられる程、強くはないから。

だからせめて待って欲しい。もう少しだけ待って欲しい。
もう少しだけ。ちゃんと理解が出来るまで。気持ちを理解出来るまで。
感情のすべてに名前を付ける事が出来たなら、きっと少しずつ受け入れられるから。

だから待って。お願いだから。
俺の知らない体裁で、俺の知らない声色で、俺を置いて先へと進もうとしないでくれよ。
安形の背中は見たくないんだ。手を引かれていたくもない。俺は隣を並んで歩きたいんだよ。
穏やかで、緩やかで、それでもしっかり厳かな、そんな心地好い雰囲気に包まれて、安形の傍に居たいんだ。

だから、頼むよ。
お願いだから、待ってくれよ。


「…………え……」


そして、安形の手が更に下へ降り、秘めたそこを撫でたその瞬間。


「はっ、はぁ……」


何よりも先に、音が聞こえた。
安形の驚愕に満ちた声よりも、不規則に乱れる俺の呼吸よりも、先に。
安形の左頬に滲む黒い鮮血。その先には使い慣れた手裏剣が、何もない壁にひっそりと食い込んでいて。
音の正体はそれだった。自己防衛の果てに生まれた、壁が傷付く音だったのだ。


「はっ……、は、はぁっ……はぁっ……」


安形はゆっくりと、その壁を一瞥した。頬には一筋の黒い雫が流れていて。
こぼれ落ちる前に安形はそれを、左手の人差し指でそっと拭った。悠長にも感じられる一連の仕種だった。
そして何故か、それはまるで安形が静かに泣いているかのような、そんな印象を俺に植え付けて。
拭われたはずの雫が俺の頬に流れたような、そんな錯覚を俺に感じさせた。


「……ごめん」
「あ……、あがた……」
「悪かったな。無理強いして」


我に返り、上体を起こして名前を呼んだ。
けれど安形は悲しげな笑みをひっそりと浮かべながら俺から退き、そのまま俺に背中を向けて扉の方へと歩いて行った。


「どこ、行くんだよ」
「リビングで寝るわ。これ以上お前の傍には居られねぇ。ごめんな、キリ」
「あがた、待っ……」
「……おやすみ」


引き止める俺の声を遮り、安形は背中を俺に見せたまま、扉の向こうへ消えていった。
扉がパタンと閉まった音が、鮮明に鼓膜へ響いて揺れて。

ひとつの言葉も生み出せない。安形の頬に傷を付けた俺の右腕が無意識に小刻みに震えていて。反対の手でそれを押さえ付けても、痙攣が止まる事はなかった。

傷付けたのは頬だけだろうか。
流れたのは鮮血だけだろうか。
それを知る術など分からぬまま。額からは汗が流れる。

そして胸に渦巻いていた感情を、漸く理解したのだった。


「……おれ、最低だ…………」


弱々しく卑下しても、それはほの暗い部屋に消えるだけ。安形には届かない。伝わらない。
だから行かなければいけない。俺は安形の元へ。この足で、今。

奥歯を噛み締めベッドから降りる。震えを無理矢理に押さえ付け、暗がりの部屋を飛び出した。
そして俺はただ一心に、安形の背中を追いかけた。











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