苛立つ背中 何もしないから。 泊まりを躊躇する恋人の背中を押すために良く耳にする言葉だ。 しかしこれ程までに真実味を失った言葉などそう多くは存在しないだろう。 そしてこのありきたりな言葉は、本日安形から俺に向けて届けられた言葉でもある。 「来るだろ?つーか来い」 「は?」 それはお決まりの展開だった。 安形の家族がそれぞれの用事の下、一晩家を空けることになったらしいのだ。 のどかな帰路をのんびりと歩いていた道すがら、安形は能天気にそれを告げ、まるで当然の事のように俺を誘った。 半ば決定事項とも取れるような問い。それに対する俺の返事はもちろんノーだ。決まってる。 「誰が行くか」 「何でだよ!」 「そりゃこっちの台詞だ。何当たり前の事みてぇな風に言ってんだこの禿げ吊されてぇのか。調子乗ってんじゃねぇぞこのクソが。脳みそ腐ってんじゃねーの?」 「そこまで言う!?」 ノリツッコミ的な安形の声が聞こえたがとりあえずそれは無視して、俺はツンと左を向き、安形から顔を背けた。 付き合い始めて大分経つ。その中で手を繋いでみたり、デートらしい事もして、キスだってした。子供がするような浅いものから、少しだけ背伸びをした深いものまで。 けれど、俺達は未だに本格的な恋人らしい行為、つまりセックスをしたことは一度もない。理由は単純。俺が拒み続けているからだ。 何度かそれらしい雰囲気になった事もある。だが俺は溢れる羞恥心と、その度に生まれるもやもやした感情から、その全てを跳ね退け、拒絶してきた。勢いのままブン殴った事もある。 だからこそ、安形としては又とないこのチャンスをどうしてもモノにしたいのだろう。その気持ちは十分に伝わってくるし、理解も出来る。 だが、いくら恋人といえど易々とそれに従うつもりはない。俺にだって羞恥心やプライドが存在する。 ノコノコ後を着いて行った挙げ句、安形の好き放題されてしまうなんて真っ平ごめんだ。 「来いよ!折角誰も居ねぇんだから!」 「だからだよ。誰が行くかボケ」 「キリぃ……」 「あ?んだその猫撫で声。本気できめぇな。マジで吊されてぇのかコラ」 「……すんません」 目に見えてしゅんと肩を落とす安形。流石に言い過ぎたかと可哀相な気持ちにもなったが、ここで折れる訳にはいかない。 雰囲気に流されるまいと安形の方を見ないようにしていると、心なしか歩く速度が上がったように思えた。 しばらくの無言。ふたり分の足音が人の少ない帰路にひっそりと揺れる。 元々口数の少ない俺は普段から安形の話に相槌を打つだけの事が多く、安形が黙ると高確率で俺達の間には会話が消えてしまう。 ただ、俺はそんな状況に気まずさを感じた事は一度もない。 何だか心地好いのだ。この男が傍にいるというのは、ただそれだけで。 正直、俺は手を繋ぐ事も、キスも、その先の行為さえも、そこまで求めてはいない。 それは安形に関心がないからという訳ではなくて、至極簡単な理由。今はまだ、傍に居られればそれでいいから。 安形の持つ雰囲気は不思議なものだ。穏やかで、緩やかで、まどろみに似ていて。それでもしっかり厳かさも併せ持ち、頼りがいもある。何だかそれがとても心地が良くて。 ゆったりとした時間が自然と流れていくため、言葉には上手く出来ないけれど、何だか安心するのだ。 俺にとってはそれが何よりの幸福。だから今はそれだけで良い。それにやっぱり、恥ずかしいし、もやもやするし。 無言を壊す事なく歩いていると、見慣れた帰り道はやがて分かれ道となり、足音を半分へ裂こうとしていた。 お決まりの挨拶を告げようと、歩く速度を緩める。すると安形は急に俺の右手首を掴んで足を止めた。 前触れのない安形の行動に後ろへガクンとバランスを崩すものの、何とか体制を立て直して振り向く。 睨みつけるように安形を見やると、安形は何処か真剣な眼差しで俺を見据えていた。 「何だよ?」 「なぁ、来てくれよ」 「だから嫌だってば」 「頼むよキリ。ふたりで過ごしてぇんだ。お前が傍に居るのって、すげぇ心地好いから」 「んなこと言われても……」 「何もしねぇから。お前の嫌がる事は何もしねぇから」 眼光の鋭さに安形の本気を垣間見てたじろぐ。 安形は遠回しに、けれどとても直接的な言葉で俺をコントロールしようと試みているのが容易に分かった。 厄介な事に、安形は俺が知る誰よりも、他人を自分に心酔させる能力に長けている。 俺がお慕いしてやまない会長も、自我も気も強い浅雛先輩も、安形の前では見事なまでに膝を正す。 やばい。まずい。脳に警鐘が鳴り響くも、安形の左手と双眼は俺を逃がしてはくれなさそうで。 「キリ、好きだ」 「なっ、んだよ……、急に……」 「急じゃねーよ。俺はずっとお前の事好きなんだから。キリは?キリだって俺の事嫌いな訳じゃねーだろ?」 「そりゃっ、…………そうだけど……」 否定させず、尚且つ肯定し易い問い。それは俺に、普段はひた隠しにしている心の内側を、つまり安形に対する俺の本当の気持ちをたどたどしく吐露させた。 たったそれだけの事でも、安形が持つ掌握力の高さを痛感するには十分だ。冷や汗が背筋を伝い、あまり心地良いとはいえない感覚が俺をじわじわと支配していく。非常にまずい状況だ。 「キリ」 「……でも……」 「キリ」 催眠をかけるように安形は俺の名前を呼び、依然として真摯に俺を見つめる。 照れと意地で固めた心の防壁が少しずつ崩壊していくのを実感した。 このまま見つめられていると、心の奥底にある恋慕の情を見透かされてしまいそうで、少しだけ頬が熱をあげる。 だが、言葉を言えずにいる俺などお構いなしに、安形は再度、言葉を紡いだ。視線は尚も変わらず鋭いままに。 「来いよ」 そして、壊された。防壁が跡形もなく、綺麗さっぱりと。 先程までの威勢は何処へやら。とどめを刺すように告げられた簡潔な言葉に、俺は何も言い返す事が出来なくて。 「………………変な事したらぶっ殺すからな……」 結局、俺は安形の思惑通りに頷いてしまう事となった。 安形は満足げに、そしてどこか意地悪さも兼ね備えた笑みを浮かべ、左手と眼差しを元に戻す。 「決まりな。準備出来次第うち来いよ。いつでもいいから」 「…………分かった」 「じゃ、またな、キリ。気をつけて来いよ。さんきゅ」 「……うっぜぇ」 苦し紛れの悪態をつくものの、何の意味も威力もなくて。 小学生の語彙でまかなえる程の幼稚な言葉だ。安形には何の影響もない。 それがはっきりと理解出来てしまう分、とっても癪で、休まる事なく腹が立つ。 分かれ道に立ち尽くす俺の目の前に映るのは、意気揚々とした安形の後ろ姿。 のんびりとしたそれに募るのは、対象的な苛立ちだけ。 本当に腹が立つ。安形の掌握力の高さにも、それに屈して結局流されてしまう俺自身にも、何もかもに腹が立つ。 きっとこの背中にはどんな言葉も届かない。敵わない。のらりくらりとかわされて、安形の意地の悪い笑みを助長させるだけだ。 抗えない能力の高さと、決して埋める事の出来ない歳の差を見せつけられているようで、惨めな気持ちにさえなってくる。悔しい悔しい悔しい。 (何でこうなっちまうんだろう) そんな俺の苛立ちはすべて右の手の平へ集約された。それをひとつも残さないようにして握り潰すと、えもいわれぬ衝動が俺をじわじわと包みこむ。 視線の先には相も変わらず、何も知らずに嬉々として揺れている安形の背中が。 もう、やるしかない。 「マジむかつく!」 「あでっ!」 ほんの少しの距離を駆け抜ける。 そして俺は再度幼稚な言葉を吐き捨てて、とりあえず拳を一発、安形の背中にぶち込んでおいた。 → |