見開いたまぶたの先、視界には、見慣れない天井が映った。周りにはヒラヒラと柔らかそうなカーテンがオイラをぐるりと包むように垂れている。 続いて鼻をついたのは独特の薬品の香り。視覚が嗅覚が白で侵されてゆく。そうか、ここは保健室か。 脳の覚醒と共に起き上がると、頭が少しだけくらくらして、額に手を当てて俯くと、触れる体温があつく感じた。 何故ここに。それは愚問だ。確かに風邪をひいて、発熱しているのかもしれない。まあ、あの雨の中傘もささずに帰ったら当然だろう。 無意識にため息が溢れて、静かな空間に溶けていった。本当に静かだった。時折遠くの方からざわめきが流れてくるだけで、それ以外何もない。 「……つか誰もいねぇのか?うん」 人の気配さえない。閉められたカーテンを少しだけめくって外を覗いてみると、案の定そこには誰の姿も何もなくて。 保険医が不在とは珍しい。まさかこの一室まるまるを占領しているとは。 そう感じたら何だかふにゃりと気が抜けて、視界にゆらめきが紛れ込んだ。まぶたを閉じてそれをごまかして、オイラは再度ベットに倒れこんだ。 すると、ガラリと勢いよく戸が開いた。驚愕して顔だけを向けると、同時に聞き慣れた声が飛び込んできた。 「デイダラちゃーん。生きてるー?」 その勢いのままカーテンがめくられた。やっぱり飛段だった。 目が合うと、飛段は少し安堵した様子の表情を浮かべた。 「あ、起きてたの?」 「ついさっきな、うん」 「具合どう?午後いける?」 「……午後?え、もうそんな時間?」 「丁度昼休みになったとこだぜ」 飛段の言葉にたまげる。オイラは午前の授業時間、丸々ここで過ごしていたと言うのか。まさかそんなに時間が経っていたなんて。 「いやーそれにしても、来たときからヤバそうだとは思ってたけど、まさか倒れるなんてな。焦った」 「……悪い」 「ひとりなんだから、体調管理はちゃんとしないとだぜ」 「そうだな……、うん」 「ま、しんどかったら寝てればいんじゃね?俺頑張ってノートとっとくし」 「そうする。さんきゅな、飛段」 「治ったら昼飯おごりな。じゃ俺食堂行くから。あんま無理すんなよォ」 そして飛段は、あー腹へった等と呟きながら保健室を出ていった。 「……ふぅ」 飛段が去って、再度訪れた静寂。依然として真っ白な空間の中、溢した吐息の音がゆっくりと響き渡った。 風邪をひくなんて何時ぶりだろう。思い出せない。少なくとも高校に入学して、一人暮らしを初めてからは一度もなかったはずだ。 遥か彼方の記憶が蘇る。じゃぜとか言う耳障りでウザッたらしい口癖の、ちっこいジジイの声を思い出す。懐かしい。 寂寞だ。オイラは思っている以上に今、心身共に弱っているのかも知れない。高校生になってからはぼんやりと薄れて始めていた、一年以上も前の記憶が何の気なしに呼び覚まされるなんて。 「……ん?」 ふわりと膨らんだそれを掻き消す様に、再度カーテンの向こうから無造作な音が舞い込んで、人の気配がやって来た。飛段だろうか。 「……飛段?何、まだ何か」 言いかけた所でカーテンが開いた。しかし、そこに居たのは思い描いていた人物ではなかった。 「……せん、せ……」 尚も変わらず整った無表情の彼がカーテンの先でオイラを見下ろしていた。 驚きに何も出来ずにいると、彼はゆったりとした動作でオイラに近付いた。ドキン、ドキン、心臓がそれに合わせて鼓動を刻む。そして彼は右手を伸ばすと、ピタリとオイラの額に触れた。 「ん……?」 「……まだ熱いな」 「……あ」 ひやり、冷たさをもたらしたそれに、つい先程の記憶と感覚が舞い戻る。 倒れる直前に感じた心地好さは、彼のたなごころだったのか。 そう気付いたこの瞬間、得体の知れない気持ちが体の真ん中に次々と込み上げた。 遠い思い出が寂寞となって、郷愁となって、でも、それ以外の感情も確かにここに紛れ込んでいて、上手な言葉が浮かんでこない。 そんなオイラをよそに彼は手を離すと、くるりとオイラに背を向けた。去ってしまうのだろうか。 そう思ったら半端じゃない焦燥感に覆われて、オイラは追いかけるように声をあげていた。 「ど、どこ行くんだ、うん」 「あ?」 彼は一度だけオイラに振り向くと、何を言うでもなくまた背を向けた。 そのまま彼が向かったのは出入口ではなく薬品棚。彼の目線の高さにあるガラスの扉を開けて、彼は無造作に中を漁っている。 そして彼は箱をひとつ手に取ると、それをオイラの胸元に放り投げた。箱が布団の上でポスンと跳ねて、脇のあたりにころころと転がる。 オイラはのろのろと起き上がり、脇に転がった箱を手に取った。 「飲め」 「……何だコレ?うん」 「ただの解熱剤だ」 続いてまた布団に何かが投げられた。今度はボスンと沈み、重量感を視線からも音からも伝えられる。 それは水だった。小さなサイズのペットボトルは未開封で、わざわざ彼は買ってきてくれたのかと思ったら、胸に再度込み上げてくるものを感じた。 そのすべて飲み込むように、言われた通り薬を流し込んだ。さらさらと体内に溶けたそれは、彼の手の温度にとてもよく似ていた。 「……ありがと、せんせー」 「……」 「つか、心配、……してくれたのか?うん」 「…………流石に目の前でぶっ倒れられたらな」 彼はそのままベットに座り、ネクタイを緩めた。そのすました姿に昨日の色気が重なり、綺麗な横顔にくぎ付けになる。 手を伸ばしたら簡単に届く距離に彼が居る。彼とオイラを遮るものは彼のバリケードではなく、保健室特有の静けさだけ。 知りたい。何故昨日、彼はあんな事を、そして何を思ったのだろう。そのすべてを聞いてみたい。 しかし、この沈黙を破ったのはオイラではなく彼だった。ゆっくりと彼は、今オイラの真ん中にあるものに触れたのだ。 「……今日はもう早退しな。角都に言って、親に連絡してもらうから」 こんな時、一体どういう表情を作るのが、どういう言葉を紡ぐのが正解なのか、オイラには未だ分からない。 ただ、笑顔だけが溢れた。それ以外にどうしたら良いのか、見当がつかなくて。 「どうした?」 「……いや、その」 「ん?」 「オイラ、一人暮らしだから……うん」 「珍しいな……」 「……へへ」 「…………お前」 「うん?」 「……いや、何でもねぇ」 物心ついた時には既に親など居なかった。ちっこいジジイの施設で同じ境遇の子供達と一緒に育って、オイラは高校入学を期に施設を出た。 あそこにはまだ沢山の子供がいるから、これ以上迷惑をかけるまいと高校には奨学金で進学して、費用の仕送りも最小限にしてもらっている。 何も問題はなかった。その筈だった。それなのに。今更あの頃の事を思い出してしまうなんて、やっぱりオイラは弱っている。 「……よく寝ろよ。そんで起きたらさっさと帰れ。さっきの薬には即効性あるから、幾分は楽になっているはずだ」 「うん……」 「薬は持って帰って構わねぇから、明日は休め。一日家で寝てろよ」 そう言って彼は立ち上がった。そしてオイラに近付いて、頬に一度、ふわりと触れた。 相も変わらず冷たい手。相も変わらず無い表情。それなのに。どうして。 オイラには彼の掌が、彼の眼差しが、穏やかな温もりで世界を照らす、優しいひだまりの様に思えてしまった。 彼はそのまま振り返る事もなく静かに去った。オイラはその背中を見つめながら、涙が出そうになるのをただ必死で堪えていた。 林檎とひだまり |