下校時間の迫る廊下は、昼に比べるとそれはそれは静かなものだった。 踵を踏んだ上履きが廊下にペタペタ擦れる音と、窓の外から打ち付ける豪雨の音、そして時折光を伴う雷鳴が響き渡る、そればかりで。 美術室へと向かっていた。彼の残した片鱗が目に入ったオイラは、どうせなら雨が落ち着くまでそこに居ようと思ったのだ。 角を曲がる。人気のない廊下が更に続く。けれど、そこで目に映ったのは目的地から漏れ出している弱い光。 誰か居るのだろうか。でもまあ、おかしな事ではない。芸術をたしなむ人間はどこか思考回路が横道に逸れている。例え雨が酷かろうが、それが創作の妨げになる理由にはならない。 事実、オイラも早めに切り上げたとはいえ、飛段との約束がなければ今もきっとそこにいたはずなのだから。 美術室の前で立ち止まり、教卓側の扉から中を覗いた。 するとそこには息を飲む光景が広がっていた。 「……せ、んせい?」 そこに生徒は居なかったけれど、たったひとり、彼が。 彼が、居た。 心臓がバクバクと震え始めた。まさか、そんな。まさか! 思わず背を向けて、高なる胸を右手でグッと押さえ付けた。どうしよう。考えた所で答えはひとつしか残されていないのだけれど、それでもやはり予想外の展開に、頭の中はぐるぐると掻き乱されてゆくばかり。 深い息を一度吐いた。そして振り返り、扉の向こうをもう一度見据えた。そこにはやはり、キャンパスに向き合っている彼の姿があった。 それはまるで夢のようで、まるで幻のようで、目を擦ってみる。けれど、視界が揺らぐ事はない。 明かりは教卓の上部しか灯されていなくて、そのせいか、彼の居る場所だけが切り取られた様に浮かんで見えた。 キャンパスを見つめる眼差しは真剣なもので、その横顔はひどく美しい。 彼は白衣を脱いでいて、袖を捲っていた。そこから見える肌はやはり真っ白。シャツの下に隠されたラインがとても華奢で、あまり普段から体を動かしていない様に思えた。 すると、彼がこちらを見たような気がした。眠たげな瞳がオイラを捉えた様な、そんな気が。 しかし、それに揺れる暇もないまま、背後から鮮烈な光と共に割れる様な音が轟いた。 「うわぁっ!」 一際強烈なそれに振り返り、窓の外を見やれば、流れる様な雨の隙間に、痛そうないかずちが一筋、二筋と射し込んでいた。 依然として強まるばかりの雨と雷鳴は、まだまだ収まる事もないのだろう。 息を吐いた。そして再度視線を戻そうとした、この刹那。 ガラ、と、戸が開く音がした。 「えっ……!?」 振り向いた先、すぐ目の前。 そこあったのはずっと遠くで眺めていた、彼のすべて。 「……あ、あの、そのっ……」 何を言うべきなのか、頭が回らずに、言葉の切れ端だけが唇から溢れ落ちる。 けれど、そんな事など関係ないみたいに、彼は相も変わらず綺麗な顔をオイラに向けていた。 あるはずのバリケードはどこにもなくて、彼の物凄い存在感だけが眼前に晒される。 こうして対峙している事が既に何かの罪であるかのような、そんな背徳感さえ全身を駆けた。 そんな彼の端麗な顔が、ゆっくりとオイラに近付いてきた。 少しずつ隙間を縮めてきて、オイラの両肩に手をついて、そして彼は、ふたりの体の距離を埋めてしまった。 「……え、え?」 一体これから何が起こるのだろうか。全く分からない。分からないけれど、抵抗することが出来なかった。 ピタリと触れ合う部分が、身体中がジンジン熱くて、更に近付いてくる彼の顔が、吐息の音さえオイラに知らせた。 彼の指先が無造作に垂れているオイラの髪を掬い、右耳を晒す。ふわりと触れた指はとても冷たくて、けれど、ふわりと触れた吐息はとてもあつかった。 どうしてなのか、何なのか、巡りめぐる疑問符に混乱して、そして何故かほんの少し、オイラはいやらしい事を想像してしまった。 「あ、あの、せんせい……?」 「……」 「いったい、なに……?うん……」 やっとの思いで絞り出したオイラの言葉はまるで無視。 聞こえたのはハァ、と、あつい吐息だけ。 そして。 「お前……、溜まってんだっけ?」 「へ……?」 「だから覗いてたの?……えっち」 どっかん。 色々なものが吹き出した。 直ぐ近くで溢された声の艶やかさとか、紡がれた言葉の幼稚さとか、吐息の熱さは勿論だけれど、それよりも何よりも、とんでもないことが起きてしまって。 囁かれた瞬間、彼の唇がほんのちょっとだけ、オイラの耳に触れたのだ。 「……っうひゃああ!!」 訳の分からない奇声が零れて、勢い良く後退った。壁に激突したら腰が抜けて、尻餅。 右耳を押さえてみても、唇はパクパクと魚みたいに止まらない。身体中が火照って仕方ない。恥ずかしいのか何なのか、心臓の動き方が尋常じゃない。 「ククッ……。案外ウブなんだな。覗き魔のくせに」 彼の瞳が、唇が、緩やかな弧を描き、とても妖艶な微笑みに変わった。同時に彼は腕組みをしながら柱に寄りかかり、真っ赤な舌で唇をひと舐めして。 「……っ……!」 息が詰まったこの瞬間、背後から眩しい光と共に轟音が鳴り渡り、直後に聞き慣れたチャイムの音が身体に入り込んできた。 引き戻される。現実が全身を包んで行く。オイラはまたしてもうわああ等と奇声を張り上げながら、一目散にその場から走り去っていた。 「は、はぁ、はぁ!」 外は激しい雨が依然として降りしきっている。駆け抜ける両足がパシャパシャと水音を生み出しながら湿っていく。そして痛い位に顔面へ突き刺さる冷たさが、全身に残された記憶を呼び起こしていく。 薄暗い廊下。彼をぼんやりと照らす美術室の蛍光灯。圧倒的な造形美。ザアザアと鳴り止まない雨の音。ひやりとした彼の温度。右耳。体温。艶声。微笑。閃光。轟音。浮き彫り。彼、彼、彼。 動悸、動悸、ドキドキと、ぐるぐると、止まらない。止まらない。 オイラの中に残るすべてが、ぐちゃぐちゃになって現れて、オイラの中で巡るすべてが、いやらしくってたまらない。 「……だ、めだ……」 全身へ流れた疲弊感に足がもつれ、膝に両手をつきながら肩で息をした。 空はとっくに真っ黒で、雨は冷たいはずなのに、オイラの中は赤色で、ただひたすらに熱かった。 あらしのよるに |