程なくして安形は更衣室に顔を出し、椿を手招きした。 緊張な面持ちで椿は駆け寄る。ドアを閉め、安形を見上げた。安形は楽しげに笑っていた。 「デビューだ、椿」 「デビュー、ですか」 「三番テーブルのフリーな。普通は新人ひとりでつける事はしねぇんだけど、如何せん人がいねぇからな。ま、あのお客さんなら大丈夫だから。教えた通りにやりゃあいい。気楽にな」 「はい……」 「あ、あと源氏名どうする?」 「源氏名?」 「芸名みてぇなもんだよ。ミチルみたいに本名のやつもいるけど、大抵は源氏名使ってる。お前の兄貴なんかはボッスンだしな」 「……特には浮かびません」 「じゃ、まんまでいっか。つか椿佐介ってそれこそ源氏名みてぇだしな」 ま、頑張れ。 そんな軽い言葉と高らかな笑い声に背を押され、椿は緊張を噛み締めながらもゆっくりと歩みを進めた。 指示された三番テーブルを見やれば、そこにはふくよかな女性がひとりいる。この場所には慣れている様だった。 極彩と喧騒の中に、椿の足音が混ざっていく。騒がしさに掻き消されているはずのそれは、椿の心臓の音と重なり、今にも鮮明に聞こえてきてしまいそうだった。 そんな事はお構いなしに、ひとつ、またひとつ、距離は縮まっていくばかり。 そして後一歩の所まで辿り着いた椿はそこで足を止め、ただ一度、深い呼吸をした。 そして椿に気付き、顔を上げた女性の瞳を真っ直ぐに見据えると、片膝を落として口を開いた。 「今晩は。椿です。ご一緒しても宜しいですか?」 「……」 「…………え、と」 椿を見つめたまま、何の反応もない女性に椿は戸惑う。 この少しの間で既に何かの不手際があったのだろうか、何かを言った方がいいのだろうか、そうだとしても一体何を言えば、と、胸中には焦燥感が渦巻くばかり。 しかし、杞憂。 女性は次の瞬間に頬を紅潮させると、興奮した様に口を開いた。 「ヤバス!」 *** 接客を終えた椿が更衣室へ戻ると、直ぐ後に安形が顔を出した。他のホストは出払っており、部屋にはふたりの他に誰もいない。 安形はソファーに腰掛け、隣へと椿を促した。それに椿は素直に従い、やや遠慮がちに浅く腰を下ろした。 「どーだった?」 「……何と言うか、よく分かりませんでした。何を言ってもヤバスとしか……」 「かっかっか。そうかそうか。ヤバスか。まあヤバ沢さんは基本それしか言わねーからな」 「お知り合いなんですか?」 「俺がホストだった時のお客さんだよ。独立してからもちょいちょいフリーで来てくれんだ。だから新人はまずあの人につけるんだよ。意地悪とかまずしねぇし。向こうもそれ分かってっから」 椿の問いに微笑みながら、安形はまるで当たり前の事の様に答えた。けれど、この瞬間椿は言葉を失ってしまった。 ホスト時代ならまだしも、安形が引退した今も尚、彼女は足を運んでいるのだと。その事実が椿にとっては非常に衝撃的だったのだ。 「……椿?」 「え、あ、はい」 「どうした?黙っちゃって」 安形の呼び掛けに椿はハッと我に返り、疑問符を浮かべている安形をただ真っ直ぐに見据えた。 しかし、何も言葉が出てこない。 無駄だ。そう悟り、そして椿はポツポツと、胸中に渦巻いてたものを包み隠す事なく吐き出していた。 「……その、…………安形さんは凄いなと思いまして」 「何が?」 「……一体何をどうすれば、そんなにも他人を惹き付ける事が出来ると言うのでしょうか?」 今日が初めての出勤であるとは言え、椿は接客した際、手応えを全く感じることが出来なかった。それなのに、彼は、安形は違う。彼女は今も安形を求め、来店する。 安形と自分の違いとはどこにあるのか。何があるのか。 大きな瞳にはひとつの疑問。迷いにも見えるそんな眼差しを受け、安形は小さな笑みを溢した。 「……なぁ、さっき、馬鹿でも出来るっつったよな」 「はい」 「でもな、それはあくまで体裁の話なんだ。見た目が良くてやることやってりゃ、それだけで場はしのげる。さっきのお前みたいに」 「……」 「けど、客にもう一回来たいと思わせるってのは、そう簡単に出来る事じゃねぇ。これはホストの、ホストだけじゃない、水商売全般において、これは最も大切な部分なんだ。だけどそれにおけるマニュアルなんてもんはどこにもねぇから、やってく中で学んで、自分のやり方を見いだすしかねぇんだよ」 安形はゆっくりと語り、口を閉ざした。椿には彼の言葉のひとつひとつが重みを持って降りかかっていた。 マニュアルなんてどこにもない。つまり椿の疑問に対する答えは、人と触れ合う中に隠されているものだと言う事。 それを掴みとる方法はたったひとつだ。 「……経験、ですか」 「その通りだ」 静かな更衣室へ喧騒が僅かに入り込んでくる。椿はホストという特殊な職の裏側に有る現実を突き付けられた様な気がして、ため息をひとつ溢していた。 「……まぁ、そんな考え込まなくても平気だよ。あくまでお手伝いなんだからさ。気楽にやってりゃいい」 椿の胸中を察して、安形は間延びした声をあげた。重ねて、ポンポンと椿の頭を軽く撫でる。 しかし、瞬間椿はたまらないと言った様に目を見開き、安形を見据えた。 「そんな訳にはいきません。例え勤務時間は少なくても、僕はやると決めたのですから、おざなりにはしたくありません」 「……」 「力不足ではありますけれど、出来る限りは精進致します。改めて宜しくお願いします」 先程の不安気な面影はどこへやら。安形を見やる椿の眼差しには打って変わって力強さが溢れていた。 「そっか」 何を言ってもやる気なのだろう。安形は悟り、笑みを浮かべながら立ち上がると、ドアへと進んだ。 そしてドアノブに手をかけた所で、同じく腰を上げた椿へと振り返った。その顔から笑みは消えていた。 「安形さん?」 「……無理はすんなよな」 「え……?」 けれど、やはりと言うべきか、安形は心配だった。彼の知る限りで椿を量っても、彼は何事にも真っ正面からぶつかっていくタイプであると言うことは容易に知る事が出来るからだ。 だが、物怖じしない性格の、その裏を返せば、柔軟性に欠けてしまうと言う事。 安形の視界には我知らず椿の左腕が映り込んでいた。ネクタイの色に重なる記憶が、安形の微かな懸念を掻き立てて行く。 しかし、告げられた言葉に椿はきょとん、と、瞳を丸めていた。そして直後、安形もまた同じ表情を見せる事となってしまった。 「……大丈夫です。同じ事を、約束しましたから。祐助と」 ふわりと、椿が柔らかな微笑みを浮かべたのだ。 「……」 一体何故なのだろう。とても不器用で、ひどく危なっかしい印象を受けるのに、心の何処かで椿なら大丈夫だと、そう思えてしまった。 そんな根拠のない不確かな思考を抱えながら、安形はしばしその微笑みを眺めていた。 ブルガリの人工的な香りなど忘れてしまう程に優しくて、穏やかで、今はあまり見ることもなくなってしまった純粋さを纏う、そんな笑みを。 「……そんなら安心だな。ま、何かあったら遠慮なく言えよ。兄貴だけじゃなくて、俺もスイッチも、椿の事はしっかり守っていくから」 「はい。宜しくお願いします」 「じゃ、頑張れ新人君。夜はこれからだぞ」 「はい!」 そのまま安形は更衣室を抜けてフロアへと歩みを進めた。そして片隅で佇むスイッチの元へ辿り着くと、楽しげな表情を浮かべながら耳打ちをした。 「なあ、スイッチ」 『ん?』 「俺、あいつは化けると思うぜ」 『アイツ?』 「椿だよ」 『何かあったのか?』 「ま、何となくな。それにヤバ沢さんもヤバスっつってたらしいし」 『ヤバイではなくヤバスか。それはヤバイな』 喧騒は途絶えない。作り物の夢の中、真っ赤な花がひとつの蕾を露にした。 fin てへ。 ヤバ沢さんを出したかっただけ(爆発) |