「何?キリはそれ以上何を求めてんの?」
「攻撃の正確さと、やっぱ色だ」
「色?……それって色仕掛けの事?」
「それ以外に何があんだよ?」
「……それって、あれだよな?さっきの映画みてぇなやつの事だよな?」
「まあな。簡単に言うならあんな感じだ」
「お、ま……」


安形は映画のワンシーンを脳裏に浮かべた。
町娘に扮したくの一が悪代官の首筋に抱き付き、真っ赤に熟れた唇を動かして悪代官に囁いて、悪代官の右手を取って自らの胸の膨らみへ誘った、艶かしいシーンだ。
その後、息つく間もなく情欲に濡れた眼差しを悪代官に向けたくの一は、本能に支配された悪代官にそのまま押し倒され、真っ白な素肌を晒して喘いでいた。
獣のように悪代官は柔肌に夢中になり、我を忘れてくの一に隙を見せた、そして瞬間。
熱く蕩けそうに濡れていたくの一の瞳がフッと色を無くして、忍ばせていたクナイを悪代官の首筋に突き付けたのだ。
ここから物語は一気に展開し、終結へと向かっていった。言わば映画の見所と言っても過言ではないシーンであるのだろう。
実際、キリはえらくその場面を気に入っていたし、スクリーン越しに見ていただけの安形にさえ、どこか背徳的な興奮を与えていた。
早い話が、くの一の色気にふたりともドキドキしていたというわけだ。

そんなシーンを、だ。
キリはこれから体現しようと修行に励むと言うのだ。キリの意気込みは忍としては至極当然な事ではあるのだろうけど、安形からしたらそんなもの、フィクションでしかない。


「昔に比べたら武器さばきは上達したけどよ、色はそうじゃねぇ。ガキの頃に修行出来るもんじゃねぇからな」
「……」
「中学ん時は腐っちまってたから何もしてなかったけど、いい加減習得しねぇとな。体も出来てきたわけだし」
「……うん、いや、ちょっと待て。キリお前さ、さっきから自分が何言ってるか分かってる?」
「は?」


淡々と紡がれる言葉に安形がキリへ振り向けば、彼女は顔色ひとつ変えずに安形を見つめ返した。安形の瞳に映る困惑に疑問符さえ浮かべている。
無理もない。忍びの道を傍観する者と歩む者とでは、いかんせん価値観が違うのだ。


「本気で言ってんの?俺がそんなん聞いて許すとでも思ってんのか?」
「は?何で修行すんのにアンタの許可が必要なんだよ?てめぇは俺の師範じゃねーだろ」
「師範じゃねーけど……、けど、俺はお前の彼氏だろーが」
「はぁ?」
「恋人の肌他人に触られていい気するわけねぇだろが。そもそも必要ねーだろ?誰に色仕掛けするつもりだよ」


足音が消える。空気が変わる。今まで緩やかに流れていたそれが、見つめ合うふたりの鋭い眼光によって小さな亀裂を生み出した。
怒りを露にした安形の瞳。夜に混ざりかけた夕焼けを背負って影を持ったそれは、キリのプライドを直接的に刺激して、苛立ちに顔を歪めさせた。


「必要とか不必要とか、そういう問題じゃねぇんだよ。俺は生まれながらの忍なんだ」
「修行のために体を開くのが忍なのか。昔はそうかも知んなかったけどよ、時代背景考えろって」
「何も知らねぇてめぇが語んな。色を身に付けんのはくの一として当然の事だ。色香は女にだけ与えられた特別な武器なんだからな」
「じゃあ何?そんなら忍であるお前にとっての恋人って、一体どんな存在な訳?」
「……それに対して俺が何て答えりゃてめぇは満足すんだ?大体、恋人のてめぇが俺が忍である事を否定すんのかよ?そんな恋人ならいらねぇ。自惚れんな!」


口論の末、キリは綺麗な程に柳眉を吊り上げ、激情に任せてまくし立てた。その冷たく紡がれた言葉の意に安形は息を詰まらせ、顔を歪める。
間髪入れずにキリは背を向け、ハイヒールの音を鳴らせた。安形のために繕った甲高い音。コツコツと、耳障りな音だ。
届かない。伝わらない。そして認めてもらえない。次々と溢れる苛立ちにキリは唇から舌打ちをこぼし、そしてこの場から立ち去ろうと、近くの屋根に向かって両足に力を込めた。


「……いっ……!」


だが、それは叶わなかった。
必要以上の力が入った事により、今まで耐えていたキリの両足が悲鳴を上げたのだ。
力が抜け、キリは思わずその場にうずくまる。両足の甲と指先には痛々しい靴擦れ。皮膚を傷付けているそれは赤みを帯びて、キリの顔を更に歪ませた。


「いって……」
「……どうした?」


悲痛な声と共にしゃがみこんだキリに安形は駆け寄った。戸惑いを抱えたままではあるものの、いつもより際立って華奢な背中は、安形の庇護欲を掻き立てたのだ。
正面へ回り、キリを見やる。そしてキリの両手に覆われた足を、細い指の隙間から覗いた傷を目の当たりにして、安形は痛みの根源に気付く。


「おま……、こんななるまでずっと我慢してたのかよ。ひでぇ事になってんじゃん」
「うるせぇな。仕方ねーだろ。慣れてねんだから」
「慣れてねぇなら何でこんな靴……」


そこまで言って、色が変わった。
俯いたままの、光り出した街灯に照らされたキリの顔色が、今はもう彼方にある夕焼けの色に、それよりも鮮やかな色に染まったのだ。
その反応に安形は呆気にとられ、改めてキリの姿を見た。紺のジャケットに、白いレースのキャミソールワンピース。普段のキリからは想像もつかない、可愛らしい、女の子らしい服装だ。


「……うるせぇ」


赤く染まったまま、泣きそうな声でキリは呟いた。
安形は全てを悟った。そして心に芽生えたのは背中合わせの優越と自己嫌悪。

キリが馴れないおしゃれをしているのは紛れもなく自分のためだ。間違いない。会った瞬間から、寧ろそれ以前から、自分はキリの特別であったのだ。
もっと早く気付くべきだった。彼女が忍である事と、今自分の目の前でうずくまっている事は、何ひとつも関係ない。


(あーもー、俺のばかー……)


何より、彼女を守ると決めたばかりだったのに。

くしゃりと髪を掻き乱して、安形はキリに背を向けた。それは決して彼女を拒絶するためではない。その逆。安形はゆっくりしゃがみ込み、両腕を広げた。


「乗れよ」
「……は?」
「痛むだろ?背負ってくから乗れ」
「なっ……、ガキ扱いすんじゃねぇ!ひとりで歩ける!ふざけんな!つーかアンタさっきから俺の事馬鹿にしすぎじゃねぇか!?」
「ごめん」
「はっ……!?」
「さっきの事だったら謝る。言い過ぎたし、お前の事全然考えてなかった」
「っ……」
「謝るから。本当にごめん。だから、許してくれんなら乗って欲しい」
「な、んだよ、それ……」


キリは戸惑う。正直足は限界で、飛び付きたい衝動も確かにある。だが、プライドが邪魔をするのだ。
ついさっきケンカをして、勢いのまま苛立ちをぶつけ、背を向けたのに。唐突にこんな優しさを突き付けられて、冷静で居られるはずがない。
揺れる心を、吐き出した言葉をどうする事も出来ずに、ただ呆然と迷っている。


「……やっぱ、俺はもういらねーかな?」


そして小さく紡がれた言葉。それは先程キリが投げ付けた、形を変えたプライドだ。意地の最果てとも言えるそれは本心であり、またその逆でもある。上辺だけを取り繕ってこぼれ落ちた、所謂言葉のあやと言うやつだ。
キリはやりきれない思いから眉尻を下げ、奥歯を噛み締めた。ぐるぐると巡る激情を必死で堪えているのだ。
痛む心と赤い足先。それを打開する方法はたったひとつ。キリはちゃんと分かっている。

人工的な光に照らされる安形の許し。静寂を纏った空気の中、コツコツと甲高い音が響いた。ゆっくりとしたそれは少しの残響を残して、隅に転がる暗がりの中にそっと紛れて。


「……ぜってぇ落とすな」


纏う音を脱ぎ捨てて、キリはそれを右手に収めた。そして安形の肩に腕を伸ばし、小さく呟いた。


「……かしこまりました」


背に触れる温もりに安形は安堵の笑みをこぼして、キリの膝に腕を回して立ち上がった。
そしてゆっくりと、覚えたてのスピードで安形は歩みを始めた。色を無くした、街灯に照らされた帰り道を、ゆっくりと。


「あのさ……」
「……何だよ」


緩やかな町並みの中、安形は背に居るキリへ声をかけた。


「やっぱ、修行やんのか……?」
「…………俺は忍だ」
「分かってるよ。……ただ、俺が言いてぇのは、条件」
「条件……?」
「修行するしないは確かにお前の自由だ。だけど、俺はそんな直ぐに考え方は変えられない。でも俺はお前の彼氏でいたい。だから……、せめて修業始めんのは、俺に抱かれてからにしてくんねぇかな?」
「……え……」
「頼む」


安形の言葉に、キリはただ呆然とする他無かった。

恋人と言えど所詮ふたりは他人であり、育ってきた世界も価値観も異なる。それを完全に共有する事など出来る訳がない。
必要なのは互いを理解し、受け入れ、妥協すること。言わば譲歩の姿勢。

ずるいやり方だと、安形は思った。それはふたりが共に居るのなら、いずれは行き着く先の未来。キリが否定する理由だってないはずで、分かっているからこそ安形はそれを利用した。
これは譲歩に見せかけた揺るぎない安形の意思。安形はキリのプライドを守ると誓い、謝辞を延べたものの、結局は他の誰かがキリに触れる事を許した訳では無かったのだ。
性格が悪いと自負するだけの事はある。そしてそれは背に居るキリにもしっかりと伝わっていて。
だが安形の思惑通り、キリが否定する理由などどこにもなかった。何故ならキリにとって、安形は特別であるのだから。キリは顔を赤らめる。何も言い返す事が出来ない。


「…………アンタ、ずりぃ……」


キリは悪態をつきつつも、安形の首筋に抱き付き、右肩に赤く染まったままの顔を埋めた。回した腕と重ねた顔。それはキリにとっての無言の肯定。
ぎゅっと込められた暖かい温もりに安形は満たされ、街灯が照らす帰路の中、光を受けてそっと笑った。


「……」


しかしそれもつかの間。安形は徐々に冷や汗をかき始めて。


(……む、……胸が……)


隙間の無くなったふたりの距離。それによって安形の背には、小さくも柔らかい膨らみがしっかりと押し合てられていた。勿論キリは無意識だ。だからこそ安形の心には戸惑いと興奮が混ざり合って、彼を攻め立てて。
そんな折、視界の端に映ったのはハイヒール。キリが右手に収めたままの、安形とキリの距離を縮めた、安形にキリの色気を感じさせた、紺色の音だ。
巡る。巡る。心臓の高鳴りを必死で堪える安形の脳裏に巡ったのは、いつもより近い位置にあったキリの顔と、そんな彼女と共に観賞したフィクションのワンシーン。
背徳的なそれと背に受ける感触に、安形は犯される。映し出されていた様々な情景が全てキリの表情に変わっていき、触れるキリの素足さえ、酷く柔らかに彼を惑わせた。
安形は何も言う事は無かったが、ひたすらに唇を噛み締めて平常心を保とうと必死になるばかりで。

もしいつか、本当に。

揺れる心を押さえながら安形は思った。その日が来たら、自分は頑張らなければならない。
今のキリにとって安形は特別である。しかし今現在、彼女のプライドと安形を天秤にかけた場合、傾くのは安形ではない。悔しいけれどそれは紛れもない事実で。
それなら傾けさせてやればいい。この手で全て、彼女を愛して。
プライドの高いキリの事だ。今の自分が何を言ってもきっと、先程のように激昂するだけ。
だったらもう何も言わずに愛していれば良い。いつか自分の想いがキリに届いたなら、キリの世界で何かが変わる瞬間がくるだろう。

先の未来に思いを馳せながら、安形は尚もゆっくりと、街並みの中を進んでいった。真っ暗に見える道ではあるが、照らす光が確かに存在する、そんな帰り道を。
そして小さな喜びと確信を噛みしめ、静かにそっと、笑みをこぼした。

いつか来る。変わる瞬間が、絶対に。

何故なら今日、キリは傷付きながらも安形のために、その足で馴れない音を響かせていたのだから。





fin





安形さんがひたすらいい男な件(爆発)





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