※キリたん先天的女体化


世界が変わる音


コツコツと地面を蹴るヒールの音が耳障りで、キリは眉をひそめた。己の足を踏み出す度にその甲高い音は生みだされ、それと共に視界の端で白いレースがふわりと揺れる。
膝上のキャミソールワンピースと紺のジャケット、そしてリボンのあしらわれた同じ色のオープントゥパンプス、左肩にかけたベージュのポーチ、これらのすべてはこの日のために鬼塚と購入したものだ。

今日は恋人である安形との初めての外出。つまり、初デートの日なのだ。

約束を取り付けられた際、キリの脳裏に浮かんだのは緊張ではなく、焦りと不安だった。
着ていく服が無い。合わせる靴もカバンも無い。持っているものと言えばくさりかたびらの忍装束とラフなTシャツ、タンクトップに、これまたラフなデニムとスニーカー。カバンもおしゃれなものではなく、手裏剣やクナイをしまうための使い古した小さなポーチ。
流石にこれではまずい。人目を気にしないキリといえど、さすがに焦った。自分ではなく、これでは一緒に居る安形が恥ずかしい思いをするだろうと。
それに、可愛い女などそこらへんに沢山溢れている。常日頃から女であることに頓着など無かったキリだったが、そんな自分に安形は呆れてしまうのではないかと、一抹の不安を抱え、そして頼った。彼女を。


『安形はんとデートぉ!?アカーン!何やねんアンタ!ごっつ青春しとるやないかい!』


それはスケット団の紅一点、鬼塚だった。彼女は日頃から見目もよく、センスも取り分け奇抜なものではない。
キリは藁にもすがる思いで事情を話し、言葉を放った。どうにかしてくれと。
その一言に鬼塚は意気揚々と瞳を輝かせ、二つ返事でトータルコーディネートを請け負ったのだ。

だが、きっとその瞬間だった。限度と言う言葉が鬼塚の世界から消えてしまったのは。
何故なら鬼塚は放課後が来るや否やキリを何十件ものアパレルショップへ連れ回し、何十着もの服を着せ、何十足もの靴を履かせ、何十個ものカバンを持たせた。そして日が完全に暮れても尚、キリを解放しようとはしなかったのだ。
元々背が高くスレンダーで、顔立ちも端麗なキリ。そんな彼女のコーディネートはさぞかし楽しかったのだろう。
結局、鬼塚の母から帰宅を催促する電話が鳴るまで、鬼塚はキリと店を回り続けた。体力に自信のあるキリといえど、慣れない事の連続だったせいか、帰る頃には溜まった疲弊を存分にさらけ出し、憔悴しきっていて。
そんなキリとは対照的に鬼塚の表情は明るく、満足感にみちみちていたけれど。


『バッチリや。これであの元会長さんもイチコロや。誰がどう見てもアンタ、可愛い女の子になってるはずやで』


別れ際、そう言って笑った鬼塚の笑顔が、キリの脳にはくっきりと刻まれている。

そんな苦労の甲斐もあってか、鬼塚の言葉通り、今のキリは普段とはまるで別人だった。
制服とは少し違うスカートの感覚と高いヒールはキリに違和感を覚えさせたが、その見た目はまごう事なく女子そのもので。
いつもは覆い隠されている手首と足首は惜しみ無くさらされ、白く細いそれは彼女には不必要な庇護欲さえも感じさせていた。

慣れない足取りに戸惑いつつ、キリは歩みを進め、ついに待ち合わせ場所に到着した。そこに安形はまだ来ていないようだった。
キリは辺りを見渡した後、植木の元へ歩み、木陰に入った。そして安形をただ待った。
その凛とした立ち姿に通りすがる人々は振り返り、そして口々に呟いた。芸能人?モデル?可愛い。綺麗。
称賛の意を持つそれらにキリは気づいていたものの、決して揺らぐ事は無かった。そのすべてが自分に向けられているものとは理解していないようなのだ。
それよりもキリは足が心配だった。ほんの少しの道のりを歩んだだけで、違和感と痛みを感じたためだ。
今日1日耐えられるだろうか。そんな不安を抱えた所で、木陰にふと、間延びした声がふわりと溶ける。


「芸能人が居るっつーから来てみたらおめぇかよ」


それは待ち人のもの。安形の声だった。降りかかるそれに顔を上げれば、飄々とした笑みを浮かべた彼が目の前にいて。


「は?」
「木陰に芸能人が居るって周りがすげぇ騒いでっからよ。ほんと、別人だな、お前」
「あ?意味わかんねぇ事言ってんじゃねーよコラ。他に言う事あんだろが」
「……お待たせしました」


安形なりの誉め言葉。しかしそれさえ、キリにはひとひらも届かなかったようだ。可愛らしい見目が台無しになるほど眉間にシワを寄せた彼女に、安形はやれやれと言った風に息を吐いた。


「んじゃま、行くか」
「おぉ……。つかどこ行くんだ?」
「特に決めてねぇけど、ベタに映画とかどうよ?忍者武芸伝の番外やってなかったか?今」
「よし行こう早く行こうモタモタすんなおいコラ安形てめぇ」
「はいはい……」


キリの好きな話題を出すと、彼女は珍しく饒舌になり、頬を染めた。大人っぽいコーディネートとは裏腹な、子供のような反応だ。安形はそのギャップにくすりと小さく笑う。

そして歩みを進め、ふたりは映画館へ向かった。行き交う人々のざわめきの中に、コツコツと、キリのハイヒールの音が揺れる。
そこで安形は隣にあるはずの銀色がないことに気付き、歩みは止めずに振り返った。
自分の一歩後ろをゆっくりと歩くキリはどこかしおらしく、そしてその姿を見た安形は、初めてキリの歩幅を知る事になった。
普段、キリは常に隣に居て、足音はおろか物音ひとつも立てずに颯爽と歩いている。
女子にしては歩みが早い。これがくの一なんだなとばかり安形は思っていたが、それは間違いだった。キリは安形の歩幅に合わせて常に早足で歩いていただけだったのだ。
しかし今回、キリはヒールを履いている。慣れないそれはいつものように彼女の歩みを早める事は無く、寧ろ妨げとなって彼女を少々手こずらせている様で。
常々早足で歩いていたにもかかわらず、息ひとつ乱す事のなかったキリの背景に彼女のプライドと長年の鍛練の成果を感じるが、こうした些細な男女の差を年下の女の子に埋めさせていたなんて、男の面目丸つぶれだなぁと、安形は自らを戒めた。
そして安形は足を止めた。それはキリを待つためでもあったが、赤信号に差し掛かったためでもあった。
少し遅れてキリも安形の隣に並ぶ。いつもより高い位置にある端正な顔。それを横目で見て、安形は無意識に心が揺らいだ。
この距離だとキスがしやすい。音といい、見目といい、ハイヒールってちょっとエロいな。
ふいに巡ったそんな下らない思考を安形はひっそりと噛み砕いて、悟られぬよう視線を戻した。頃合いを見計らったように、赤信号が色を変える。

ふたりは無言のまま歩みを始めた。そして安形はさりげなく、歩くスピードをキリのそれに合わせた。
キリの歩幅はコツコツと鳴る一定のリズムによって何となくつかめていたため、何も言う事はせず、あくまで自然にそれに合わせていった。
あからさまに速度を変えて距離を埋めてしまったり、その事を口に出してしまったら、それはきっと今まで黙っていたキリのプライドを傷付けてしまう事になるだろうと思ったからだ。

いつもより高い位置に並んだ銀色。それを視界の端に見て安形は思った。
これからこの速度とキリのプライド、そして言うまでもなく彼女自身を、しっかり守っていかなければ、と。



***



そしてふたりは目的の映画を見終え、近くのレストランで食事を取りながら談笑していた。
話題は主に映画の話。普段は寡黙な事が多いキリだが、先程のように自分の好きな事となると途端に饒舌に変わり、瞳を輝かせて頬を染めている。


「やっぱあれだな。町娘に扮したくの一が圧巻だったな。色仕掛けに翻弄された悪代官のあの末路。傑作だぜ」
「ありゃー凄かったな。つーかエロ過ぎ」


仲睦まじく会話をするふたり。しかし、その会話の傍らで安形はあることに気付いていた。よく動く口とは裏腹に、キリの手が全く動いていないのだ。
注文した焼き魚定食の7割までたいらげた所で、ゼンマイが切れたようにピタリと止まってしまっている。セットになっている白米も同様にだ。


「もっかいDVD見よ。安形も見るか?ダビングするぜ?」
「ああ、頼む。後さ」
「ん?」
「それちょっと頂戴。俺これだけじゃ足んなくって」
「お、……おお」


安形はキリの皿を指差し、問うた。あえて遠回しに、確信を告げないのは安形なりの優しさだ。
歩幅を合わせた際もそうだったが、きっとキリは安形と対等である事を常に望んでおり、埋められない箇所を指摘される事を嫌う。
キリはプライドが高いのだ。それに気付いていながら、わざわざへし折る必要もない。


「あーうめぇ。ステーキの後の魚ってのはさっぱりしてていいな」
「良かったな」
「駄目だ止まんねぇ。全部食っちゃっていい?」
「好きにしろよ」


事実、差し出された皿と茶碗、そしてキリの表情から不機嫌さは感じられなかった。
綺麗に食べられている魚の残りを頬張りながら、安形はキリを見て小さく笑った。
キリが精一杯に背伸びをしている様が、可愛くて仕方ない。


「……何笑ってんだよ」
「別にー」
「きも」
「うわひでぇ」


キリの辛辣な言葉に安形は苦笑いになるも、ふたりを包む空気はなだらかに流れていた。

安形が全てをたいらげた所でふたりはレストランを出た。
当てもなくのんびりと歩きながら、目についた店に立ち寄ってはウィンドウショッピングを楽しんでいく。
いつもよりゆったりと進む街並み。キリは普段、景色をこの速度で眺めているのかと、安形は感慨にふけった。

そして気づけば空の果ては色を変え、並んで歩くふたりの影を遠く、長く伸ばしていた。
頃合いだ。安形はキリへ振り向くと、動かす足と同じような速度でキリに声をかけた。


「そろそろ帰るか」
「そうだな」


名残惜しい気持ちを噛み締めながらふたりは帰路についた。心なしか景色は先程よりも緩やかに流れている。コツコツと鳴るヒールの音も、同じようにテンポを変えて。
まだ、帰したくない。
まだ、帰りたくない。
それぞれの想いの丈を反映するように、街並みはゆったりと進んでいく。


「映画、楽しかったな」
「ああ。俺ももっと修行しねぇと」
「それ以上!?」
「あ?当たり前だろ。俺なんてまだまだだ」


止められない夕暮れ。その中でふたりは口を開いた。やはり話題は映画の話だったが、少しでも長く時間を共有出来るのなら、今のふたりにとって内容などどうでも良かったのだ。

だからまさか、何の気なしに放ったこの言葉が、この後に激しい悶着を生み出す事になろうとは思いもしなかっただろう。











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