初出勤 きらびやかなスーツを身に纏い、椿はKaimeiの更衣室にいた。 フォーマルな場では決して着ることのない、細い銀のストライプが施された黒いスーツ。 中に着ているベストも同じ柄であり、そして真っ白なワイシャツにはキラキラと銀色のラメがちりばめられて、綺麗にアイロンがかけられている。 真っ赤なネクタイをきゅっとしめて鏡を見やると、椿は何だか自分が別人のように思えた。 「おー、椿ちゃんいいよー。様になってるじゃない」 「そう、ですか……」 支度の整った椿に声をかけたのはミチルだ。緩くパーマのかかった茶髪がふわふわと揺れ、彼の間延びした声と優しく同調している。 そしてそんな彼が身に纏っているのも、椿と同様、フォーマルな場では着ることのないスーツだ。 真っ白でシンプルなデザイン。それは彼自身の端正さを、より一層際立たせていた。 「まさか椿ちゃんだったなんてねぇ。確かに可愛いからなぁ、椿ちゃん。……うん、うん。いける。いけるよ。ウチまだ可愛い子ってのは居ないから、いけるよ」 『ミチル』 「はーい。今行くよ。あ、椿ちゃん、これあげる!」 「うっ……!?」 「これで皆メロメロだよ。じゃ、椿ちゃん、初出勤頑張ってねぇ」 「は、はい……」 スイッチに呼ばれ、ミチルは去り際、自身の持つ香水を椿の首筋にシュッとかけた。 瞬間、椿の鼻をついたのはブルガリ。嗅ぎ慣れない人工的な匂いに、椿は眉をしかめる。 「入んぞー」 するとそこで無造作に更衣室のドアがノックされ、椿の返事を聞く前に安形が顔を覗かせた。 黒いスーツを纏っているがネクタイはしておらず、無防備な首筋が彼自身の性根を包み隠さず表している。 安形は着替えの済んだ椿を見て、おっ、と瞳を丸めた。 そして椿に歩み寄ると、頭の先から爪先までをじっくり眺め、かっかっかと笑い声を上げた。 「中々様になってんじゃん」 「そうですかね……」 「いいもん持ってんなぁー。ん?つかお前香水なんて洒落たもんつけてんのかよ。やる気満々だな」 「いえ……、これは先程榛葉さんが……」 「ああー。アイツもノリノリだなぁオイ」 緊張に体を強張らせている椿とは裏腹に、安形は嬉々とした様子で顔を緩めている。 そしておもむろにポケットからネクタイピンとブローチを取り出すと、自ら椿にそれらを施した。 「このブローチは、……花、ですか?」 「ああ。お前の名前にちなんで用意してみた。高かったんだぞー」 「すみません……」 「冗談だよ」 鈍く光る銀色。椿と同じ名の花を象ったそれは、椿に静かな重みを与えた。 真っ赤なネクタイが銀色に彩りを添えて、椿に凛と咲く花のイメージを重ねる。 色白で端正な顔立ちに、スラリと伸びた四肢。加えて纏うきらびやかな衣装は、椿をどこからどう見てもホストそのものに変えた。 「よし、見た目は完璧だな。素材が良いと余計なテコ入れ要らねーから本当助かるぜ」 「はぁ……」 「じゃあ始めんぞ。まず一通り基本の接客教えっから、ついてこい」 安形の言葉に頷き、椿は更衣室の扉を抜けた。 前を歩く安形の後ろで、椿はキョロキョロと店の様子を伺っている。 満席ではないものの、営業が始まっている店内は少し騒がしい。何のものかわからないBGMが流れ、薄暗い照明と色とりどりのネオンが光り、椿の鼓膜と網膜を絶え間無く刺激する。 まるで異次元のようだと、椿は少し戸惑いを隠せないようだった。 「ほんじゃ、そこ座って」 ついた先はホールの1番隅のテーブルだった。 壁をつたうようにソファーが並んでいて、真四角な形をした机を挟んで丸椅子が設けられている。色は統一されていて、全て黒。 安形はソファーに椿を座らせ、向かい合うように丸椅子へ腰を降ろした。 テーブルには青い瓶と逆さに置かれたコップ、透明の液体の入った入れ物など、椿には見慣れないものが端に並べられており、椿はただ疑問符を浮かべるばかりだった。 「つーかさ、ホストって何すっか知ってる?」 「……すみません」 「だよなー。ま、簡単に言うとだな、客に気ぃ使って酒作って会話して飲むだけだ。馬鹿でも出来る」 「……はぁ」 「まず客が席ついたらおしぼり広げて渡す。そんで何飲むか聞いて、酒作ったら会話の始まり。客が煙草吸うなら火ぃつけて、んで時間が来たら終わりだ」 「はい」 「お前、酒飲む?煙草は?」 「付き合い程度に……。煙草は吸いません」 「だと思った。んじゃ今から色々教えるから。よく聞いて、よく見とけよ」 「はい」 椿の真っ直ぐな返事に安形は目を細め、そして最初にテーブルに置かれた物の説明を始めた。 青い瓶は焼酎で、逆さに置かれたコップは客用のもの、透明な液体は水であると。 椿は真剣な眼差しで安形の言葉に耳を傾けていた。 *** そして一通り基本を教え、安形は最終確認といった様に口を開いた。 「ざっとこんな感じだけど、いけそう?……焼酎の割りものとか覚えてる?」 「緑茶、ウーロン茶、オレンジ、グレープフルーツ、パイン、アセロラ、後は水でしたよね」 「お、おお……。お前ら兄弟頭いいんだな。ビビった」 「いえ、そんな……」 「ま、分かんない事は都度聞いてくれよ」 「はい」 安形は椿の記憶力にひとまず安堵し、そしてテーブルの上を整え始めた。説明の為に位置を変えただけの散らかりは直ぐに元へ戻っていく。 「……ん?」 ここでふと、安形はひとつの視線に気付いた。テーブルを行き来する安形の手を椿がじっと見つめているのだ。 手を止めて椿を見据えるも、椿は視線を上げはしない。 「……怖い?」 「え……」 どこか覇気のようなものを纏った笑みと不意に告げられた言葉に、ドキ、と、椿の心臓が派手に揺れた。 「……いえ」 咄嗟に椿の口からは真っ赤な嘘がこぼれ落ちた。無駄な心配をかけまいとする気遣いのつもりではあったのだが、揺れる心臓はおさまりそうにもない。 安形に対する恩返しのつもりであろうが、血を分けた泣き虫の兄が居ようが、新しい世界へいざ飛び込むとなると、やはり畏怖と緊張は椿の中にその顔を覗かせたのだ。 「かっかっか。いいよ、無理しなくて」 安形は全てを見透かし、笑い声をあげた。その笑顔はすっかり元に戻っていた。 「誰だって最初はそんなもんだ。それは正常な証だ」 「はぁ……」 「初めはあたふたしちまうだろうけど、何も心配しなくていい。俺とかスイッチがちゃんと見てるから」 じゃあ行くぞ、そう言って立ち上がった安形に椿は続いた。喧騒を通り抜け、更衣室に戻る。 他のホストに混ざりながら椿は一度、深呼吸をした。ブルガリの香りが椿の中に溶けていった。 → |