流れる風。どことなく甘い香りを含んだそれは桃城と越前の、練習後の為に火照った体へさらさらと気持ち良く触れていた。
桃城の後ろに両手を重ねる度、その人工的な甘さは越前の鼻をくすぐり、彼にその存在をひっそりと主張していて。
余り物事には関心を寄せない越前だったが、その香りは決して嫌いなものでは無かった。

緩い速さで流れていく甘い風とオレンジの町並み。昼間は真っ白に輝き、体力をじわじわと奪っていた太陽は現在、夜の訪れをほのめかして、雲の輪郭を鮮やかな琥珀色に染めあげていた。
何の気なしに視線を落とした越前の視界には、ツンと上向きにセットされた桃城の髪が映る。時間と共に色を変える太陽とは反対に、朝と全く変わらない形の黒髪だ。
毎日のように見ている光景。だが、何故か今日、それは越前の興味を微かに引いたらしい。彼はおもむろにその先端を、肩に置いていた左手の人差し指でそっと触れた。
刺さってしまいそうな程に固く見えたそれは意に反してそんな事はない。当たり前だ。所詮は髪の毛。
桃城がつけているワックスは重力を遮るためのものであり、硬度を増すためのものではない。柔らかいままの黒髪は、越前の指の腹をいたずらにくすぐるだけだった。


「何だよ」
「ん?」
「こそばい」


両肩にあった体温が左側だけ離れた事、そして感じる、頭の先から間接的に頭皮をくすぐられるようなじれったい刺激に、桃城は訝しんだ。
むずむずと尚も与え続けられる小さなそれに、彼は頭を左右に緩く振って静止を促す。
何せ今は運転中だ。小柄なエースの全てを後ろに預かっている状態で、むやみに両手を離す事は出来ない。
だが、彼が握っている歳相応の責任感とは裏腹に、むしろそんな事など気にも留めていないであろう越前は依然として柔らかい毛先を撫で続け、桃城にじれったい刺激を与え続けていた。


「刺さるかと思って……」
「んなわけねーだろ。ワックスで髪固めて人刺せんなら世の中えらい事になってんぞ」
「それもそっスね」
「もういいだろ。いい加減くすぐってぇからやめてくんない?」
「はーい」


生まれた好奇心は直ぐに満たされたのだろう。越前は桃城の言葉に素直に従い、左手を元の定位置に直した。視線は尚も桃城の黒髪に向けられていたが、越前は再度それに触れる事はせず、流れる風の甘さに身を委ねている。

そこで、越前はふと気付いた。そして今度は左手ではなく、顔を近づけ、鼻先を黒髪にあてる。
ふわり、香る、甘い匂い。人工的な、柔らかな香りだ。


「桃先輩だったんだ」
「は?」
「匂い。いつも後ろ乗るとするから」
「……え。ちょ、何?もしかして臭かった?……悪い。でも練習の後なんだから仕方ねーだろ」
「違うよ」
「ん?」
「多分、桃先輩のワックス」
「何だ……ビビった」


香る甘さの正体。それは桃城が毎日使用している、ワックスの匂いだった。見当違いの不安に桃城は焦ったものの、越前の否定にそっと胸を撫で下ろす。
尚も緩やかに越前の元へ流れて行く甘い風。桃城自身の香りと混ざったそれは、やはり越前にとって嫌いなものでは無かった。


「桃先輩の匂いと混ざって、何か不思議な感じ。でも俺嫌いじゃないっスよ。桃先輩って感じで、いい匂いっス」


ひょんなことから、日々香る香りに確かな答えを見出した越前。彼はその事に満足したのか、思った事を飾らずに告げると、桃城の黒髪に対する関心をすっかり無くした。
そして今度はその大きな瞳を、流れる景色が持つオレンジ色に染め、気ままにひとつ、欠伸を漏らした。言うまでもなく、吸い込む空気は甘い香りを含み、彼の肺にそっと消えた。


「……桃先輩?」


そこで、越前は小さな疑問符を浮かべた。普段は饒舌な桃城がひとつの言葉も紡いでいないのだ。
越前は訝しみ、再度視線を黒髪に移して声をかける。桃城からの返事はない。


「どうしたんスか?急に静かになっちゃって」
「……お前さ」
「何スか?」
「恥ずかしい事言ってんじゃねーよ……」
「は?」


何の事だと瞳を丸めたところで、越前は桃城の耳が綺麗なまでに赤く染まっている事に気付いた。
夕焼けの淡い色に同調しているものの、それは桃城の心情をしっかりと主張し、越前に知らせる。
へぇ、と越前は呟き、意地の悪い笑みをその小さな口元にそっと浮かべた。面白がっているのが一目で分かる程の、憎たらしい笑顔だ。


「桃先輩、照れちゃったんだ」
「うるせーよ」
「可愛いとこありますね。意外と」
「……ほんと生意気」
「可愛い、桃先輩」
「……覚えてろよ」
「真っ赤になって照れちゃう可愛いくていい匂いがする桃先輩をっスか?分かりました」
「……」


一枚上手な越前に揚げ足を取られ、桃城は言葉を失う。そして溢れる羞恥心を色に変え、より深い赤色に耳を染めた。はぁ、と漏らしたため息と共に、ハンドルを握る桃城の両手が脱力感に満ち溢れる。
その様子に、くすくすと笑う越前。その小さな笑い声は黄昏に染まる景色の中でのどかに揺れた。
桃城が生み出す柔らかな風と、ほのかに香る甘い匂いを、ふわり、ふわり、纏いながら。





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