椿がキリの林檎へ触れてから2日、キリは漸く回復し、そして中庭のベンチに腰掛けて人を待っていた。 今は昼休み、待っている相手は椿である。 ついに想いを告げる時がきたのだ。 キリの心臓は4限目終了のチャイムと共にキリの体内で激しく鳴り響き、移動の際に何度か木の枝から落下してしまう程、平常心を失ってしまっていた。 初めて人を好きになったのだ。否、好きになっていた。 椿から想いを告げられた際、吐息の白さが脳内までをも染めていき、見つめてくる椿の瞳をキリは受け止めることが出来なかった。 好きだ、好きだ、淡く白く染まった脳内で何度も椿の言葉を反芻し、それが示す意味に気付いたときには、求めて止まなかったはずの熱が顔中に集まり、疎ましいとさえ感じた。 会長は自分を好き。では自分は? 正直、分からなかった。あの時点では真っ白な混乱が脳をすべて染めていたからだ。 よく分からない、だから少し待って下さい、気持ちを整理させて下さい、そう告げようとして、それを遮ったのは強い北風。 次から次へと脳が揺さぶられ、混乱の果てにキリが辿り着いたのは椿の背中だった。 何故涙が零れたのか、どうやって家まで帰って床についたのか分からないまま、翌朝に訪れたのは寒気と熱気。 風邪をひいてしまったのだとキリは虚ろな気持ちになった。 とりあえず学校に連絡はいれたものの、体調を崩した時に訪れる独特の物憂いと侘しさは尋常じゃなくて。 ただひたすら辛くて、切なくて、寂しくて、そして枕に顔を埋めてまぶたを閉じた瞬間、キリの脳裏に浮かんだのはひとりの人間。 真っ直ぐに瞳を射抜く、椿佐介で。 会長、会長、何だか体が辛いです。 何だか心が寂しいです。 何だか貴方の瞳が恋しいです。 何だか貴方に会いたいです。 そう感じて、キリはあれ、と訝しみ、そして気付いた。 涙の意味、そして自分の椿に対する本当の気持ちに。 それはニュートンが万有引力を発見した時のような、そんな唐突さに似ていた。 林檎が落ちて、彼が気付いた世界の本質。 落ちた瞬間に気付いたというなら、キリの場合は、きっとあの時。 だから椿が自分を訪ねた際は本当に嬉しかった。 前日の冷淡さが嘘の様に、椿は真っ直ぐに自分を見つめて、きつく、優しく抱きしめてくれて。 頬に指が触れた瞬間には、それが甘酸っぱいほどにくすぐったくて。 暖かくて、気持ち良くて、もっと触っていて欲しくて。 次第に訪れたのは睡魔。だがそれを睡魔と感じる前に、キリは眠ってしまった。 気付いた時には椿の姿はなく、代わりに残されていたのは、突っ込み所満載な生徒会のキャラクターが描かれたメモ。 いびつな形の吹き出しに、男子にしてはとても綺麗な字で、メッセージが書かれていた。 キリへ。 体を暖めて、食事をしっかりとり、沢山眠れ。 熱が下がるまで欠席するんだぞ。 無理をしてはいけない。 僕は元気な君に早く会いたいんだ。と。 その言葉を捉えた瞬間、キリの胸は激しく揺れた。 早く会いたい、早く会って、1番にこの気持ちを伝えたい。 そして真っ直ぐに自分を見つめて、優しく触れてほしい。 溢れる願いは活力へ。 それからキリは文字通り、体を暖めて、食事をしっかりとり、沢山眠った。 熱が下がるまでちゃんと欠席し、そして漸く回復した本日。 浮足立つ気持ちを抑え、朝早くにキリは椿の元へと向かった。 久しぶりに会った椿。しかし至って普通だった。 挨拶を交わして、他愛もない話をしながら学校へ歩みを進めて。 そのあまりの普通さにどうしようかとキリは悩んだ。 そうしている内に学校に到着してしまい、キリは焦りながらも、校舎の敷地へ踏み入る直前に椿へ声をかけた。 『……会長!』 『何だ?』 『……っ今日の昼休み、中庭に来ていただけますか?』 『あ、ああ……?構わないが……』 『……貴方にお返事がしたいんです』 『……分かった』 そして、今に至る。 キリは依然として小刻みに脈を打つ心臓に揺さぶられ、深呼吸を何度も繰り返していた。 ちゃんと目を見て言えるだろうか。 泣き出したりなんかしないだろうか。 あの時の椿のように、凛としていられるだろうか。 胸を駆け巡るのはそんなことばかりで。 それはすべてキリの、椿への想いに比例して生まれている不安感だ。 流れた北風。何度目かの溜め息は薄く色づいていた。 しかし体温はじわじわと上昇し、頬をそっと染めていく。 何て言おう、どんな言葉を選ぼうか。 早く来てほしい。まだ来ないで欲しい。 林檎は北風に不安定に揺れながら、それでもその時を今か今かと待ち侘びている。 林檎は重力に、キリは椿に、それぞれひかれ、落ちていく。 歴史が変わる瞬間の、林檎の末路は誰にも分からない。 相も変わらず揺れる心、握りしめても震える手、落ち着けない深い呼吸と、淡く色づく白い吐息。 そして、真っ赤な林檎に、近づく足音。 (……っ……) 足音に気付いたキリは1度呼吸が止まった。 どんどんと近づいてくるそれに、キリの心臓も歩幅を揃える。 きた、きた、ついにきた。緊張は最高峰へ。 ついに訪れた瞬間、歴史が変わる予感。林檎が振り幅を広げて激しく揺れ始めた。 落ちる、落ちる、大地に、椿に。 一際大きな北風が吹き、その勢いにキリは便乗、 息を深く吸い、そして俯いていた顔を勢いよくあげた。 「かいちょ」 「アンタ何しとるん?」 「…………え?」 しかし、揺れはピタリとおさまってしまった。 聞こえたのは椿の凛とした声ではなく、甲高い独特の関西弁。 「……鬼姫……」 「おわ!アンタ顔真っ赤やん!どないした!?」 あまりに予想外の展開に呆気にとられ、キリは言葉を失ってしまった。 だがキリだけでなく、林檎も。 林檎も落ちるタイミングを完全に失ってしまった。 「寒いんか?アンタ折角風邪治ったんにまたぶり返してまうで?椿に用事なら直接教室行ったらええやん」 「何で知っ、……関係ねぇだろ」 「……アンタ今かいちょ、言うたやん……」 聞こえた名前に反応してしまい、しまったと顔をしかめるキリ。鬼塚は呆れ顔で飴を舐めている。 北風と共に流れるのは微妙な空気。無理もない。 それまでずっとキリの、それこそまだ未熟な林檎のような甘酸っぱさが広がっていたのだ。 気まずさにキリは黙る。しかし、対称的に鬼塚は表情をどこか楽しげなものに変え、何とそのままキリの左隣に腰を降ろしてしまった。 「……っおい、何だよ!」 「そないに顔真っ赤にして椿に用事か」 「関係ねぇ……」 「なーんか甘酸っぱい感じすんな、アンタ。な、ヒメ姉様に教えたってや?」 「断る!」 厄介なことに、鬼塚はキリの林檎に興味を持ってしまったらしいのだ。 好奇心旺盛な鬼塚にしてみれば当然の成り行きだろう。 何せあの狼のような後輩が、頬を真っ赤に染めて甘酸っぱさを纏っているのだ。気にならないはずがない。 真っ赤な林檎。穏やかな北風にそよぐ林檎。 ゆらゆら揺れるそれはいつか落ちてしまいそうな程に脆く見え、しかし中々落ちることはない。 何なのだろう、この林檎は。落とすことはしないけれど、この手で揺らすくらいはしてもいいだろうか。 鬼塚は好奇心を溢れさせ、それを指先に凝縮させた。 「おう、おう、真っ赤やで自分」 「やめろ!頬をつつくな!」 「やらかいなぁ。可愛いらしなぁ」 「指をはなせ!」 「ほんなら教えてや。真っ赤な理由教えてや。風邪のせいやあれへんのやろ?これ」 女子に乱暴は出来ない。それはフェミニストというわけではなく、女子に乱暴はするなと椿に止められているからだ。 口を閉ざし、奥歯を噛んで鬼塚を見る。 コイツ、ほとんど分かってやっているなと、キリは心から悔しい気持ちになった。 「そんな目で見たって怖ないで自分。アンタ今ただの恋する男の子やもん」 「はっ!?」 「おぅおぅ、こないにほっぺ真っ赤にしてぇ。アンタホンマに椿大好きやんなぁ」 「ちっ……違ぇよ!」 「違くないやろ?照れんでええって」 「違う!会長はそんなんじゃねぇ!」 「またまたぁ」 「俺にとって会長は会長でしかねぇ!誰よりも尊敬に値するお方で、守るべき主君だ!」 キリは鬼塚に告げる。 半分本当で、半分嘘の気持ちを。大切な気持ちを守るための、真っ赤な嘘を。 綺麗な林檎を差し出すのは、たったひとりのあの人だけ。鬼塚ではない。 好奇心につつかれて食べられてなるものか、絶対に林檎は落とさないと、キリは半ば意地になっていた。 「……つまらん」 キリの作戦は成功。 先程の輝かしい瞳は何処へやら。 いくらつついても振り幅を広げない林檎に鬼塚は興味をなくし、指を下げてそれを止めた。 思惑通りの展開にキリは安堵の息を吐き、だがそこで気付いてしまった。 「……っ……!」 「あ、椿」 こちらを見ていた椿に。 一心に、決して瞳を逸らすことなくこちらを見ている。 揺れる、揺れる、林檎が揺れる。 いくら鬼塚がつついても揺れなかったそれが、激しく揺れた。 何時からそこに、そして何処から聞いていた? 瞳が開いていくのが分かる。背中に伝う汗の感覚と脈打つ心臓がやけに鮮明で。 キリは口を開くも、言葉を紡ぐことだけが出来なくて。 「あ、そういえば何かあったのやろ?ほなアタシ行くわ」 ふたりの心情など知りもしない鬼塚。 ニコニコと微笑んだまま颯爽とその場を離れていった。 訪れたふたりだけの空間。 この状況を望んでいたはずだったのに、息苦しささえ感じる程、キリの鼓動は呼吸を邪魔していた。 「……かいちょ」 キリは漸く声をかける。だが、その直前に椿はキリに背を向けた。 重なる記憶にキリは息を飲む。 待って下さい、誤解です、そう告げるより先にキリは走って椿を追いかけ、そして椿の腕を掴んだ。 「……っ」 「……お待ち下さい」 「離してくれ」 「離しません」 「……っ離してくれ!」 しかし、捕らえたのもつかの間、椿は振り向くのと同時に勢いよく腕を払い、キリを一心に見据えた。 涙に濡れた眼差し。怒りにも、悲しみにも見えるその瞳に、キリはまたも言葉を失う。 「……頼むからひとりにしてくれ」 そのまま椿の表情は歪んでゆき、何度か早い瞬きの後、椿は視線を大地に移した。 「会長」 「大丈夫だ。ちゃんと授業にも生徒会にも出席する。君とも普通に接するから」 「話を」 「話なら聞いた。改めて聞きたくなどない」 「……違うんです!会長!」 「うるさい!」 「……っ……」 キリの否定に椿は声を荒げた。 よく通る凛とした声。 寒気に似た突き刺すようなそれに、林檎が違う揺らぎを見せた。 「……こんな形で聞きたくなかった……」 震える声が聞こえ、直後に林檎を濡らしたのは大粒の涙。 それは大地に引き寄せられ、何ものにも遮られることなく小さな水溜まりを作っていく。 「……会長命令だ……、頼むからひとりにしてくれ……」 椿は尚も震える声でポツリと呟き、キリの返事を聞く前に、背を向けて走り出した。 「……っ」 キリは嘆く。 どうして、どうしてこうなってしまうのだろう。 どうして自分の想いはあの人の元へ真っ直ぐ届かないのだろうかと。 やりきれない気持ちに視界が滲み、そしてついにはキリさえも、色づく林檎を涙で濡らした。 「…………ひ、く……」 重力によって零れるそれは、残念ながら林檎ではない。 遠ざかる椿の小さな背中が、温もりをなくした水溜まりが、あの日の雪景色と重なっていく。 (……っどうして) ゆらゆら揺れる真っ赤な林檎。 落ちる好機を逃した林檎。 林檎は歴史を変えられず、ふたりの涙に濡れるだけ。 → |