chloe







くるり



※気持ちは光謙の光と謙也


 見上げた天井は低くて、見下ろしてくる顔は困っていた。視界を塞ぐように顔の上に置かれた手は、じんわり汗ばんでいる。グリップのゴムの臭いのする、馴染んだ人のものだ。グラつく世界は不安定で気持ち悪いままだったけれど、匂いや感触に安堵して目を閉じれば幾分マシだった。


 練習終わりのクールダウンに走りに出ると、前を走っていた謙也さんが突然立ち止まり、フラフラとしながらしゃがみこんでしまった。どうしたのかと声をかけても、うんとか大丈夫とか言いながら立ち上がろうとして崩れてしまう。全く大丈夫ではないだろう。日射病だの熱射病の時期にはまだ早く感じたが起こらないともいえない。とりあえず顔色を見なければと俯く頭を上げさせると、固く目を閉じて眉間にしわを寄せて顔色は真っ青ではないにしても血の気が引いて白くなっていた。受け答えは普通にできるから大事ではないだろうとは思ったが、良くないことに変わりはない。
「謙也さん。どうしたんすか。」
「あー、頭動かさんでぇ。気持ち悪い。」
「立てますか。部室まで戻れます?」
「おん。」
うっすら開いた目がこちらを見るけれど、瞳は一点を捕らえることなく彷徨っていた。実にゆっくりと立ち上がって歩くけれど、平衡感覚を失っているようでまっすぐ進めていない。転ばれても困ると、役に立つか立たないか(10センチも差があるのだ、仕方ない)手を添えてやると「悪いなぁ」とまた固く目を閉じてしまった。
 部室に戻ると部長を筆頭に集まってくる。様子のおかしいことに気づけば「どうした」と心配の声がかかるけれど、はっきり言って喧しい。「大丈夫」としんどそうに言う謙也さんを座らせながら、
「先輩らうっさいっすわ。」
途端水を打ったように、ハッとして口を噤む。部長が謙也さんを覗き込んで様子を見ながら、「なんや、いつものか」と息を吐いた。部活も終わっていることもあり、もともと人数は少なかった部室内だったが、謙也さんは落ち着いたら帰らせるということで、残っていた先輩らも「お大事に」とのことでそぞろに帰っていった。
 生憎今日は日曜で保健室は開いておらず、部室のベンチに横たわらせた謙也さんを後ろ手に、部長が言うには発作性のめまい症らしい。大した酷いものでもなく、慣れと自己のリハビリで日常生活に問題はないそうだ。なんでも発作性なだけあってこれまでにも時折起こしていたという。
「財前は初めて見たからびっくりしたやろ。」
と、あっけからんという部長は何度もこんな謙也さんを見てきたのだろうか。弱った姿なんて見たことなかったからか、オレは不思議な感覚に生返事を返す。いくら親しくなった方とはいっても、オレは後輩で、この件に関してはたまたま遭遇しなかったと言えるけれど、それすらもどこかもどかしい。
 不意に謙也さんが身体を起こそうとしているのに気付き、声をかければ、口を押さえながら小さく「吐きそう」と訴える。トイレに行きたがるけれど、こんな状態では無理だと、部長に言われるままに比較的きれいなバケツを持ってくる。肩肘ついて起きた状態で数回嘔吐く。額に浮かんだ汗と顰められた形の良い眉、生理的に浮かんだ涙にゾクリとしたものが背を走ったのを感じた。さっき飲んだスポドリを戻して、胃液も上がってきてしまったのだろう、水分ばかりが逆流してきていた。大したことないと言っていられないじゃないかと、部長を見れば苦い顔をしている。
「謙也、おばちゃんに…」
「いらん。」
「…薬は?」
「うち。」
「あるんやな?」
「おん。」
 粗方出して落ち着いたようだったけれど、ひどくやつれて見えた。いや、実際そうなのだろうけど。再び横にならせると、部長はバケツを流してくると行ってしまい、オレはといえば手持無沙汰に黙って謙也さんの様子を見ている。目元を隠すように置かれた手が僅かに下げられ、緩んだ視線がこちらを見ていて、なんとなく罰が悪くなって視線をずらす。
「ごめんな。」
萎んだような声だった。
「帰って大丈夫やで。」
「そんなん言うて、自力じゃ帰られへんでしょ。」
こんな時まで先輩ぶっているような(だって部長にはそんなこと言わないじゃないか)物言いが癪に障る。オレと謙也さんは家の方向が同じだから、反対方向の部長より自分が送っていくべきだと思うのは妥当なことだと考えていた。
「送ってきますから。」
「…ええって、悪いから帰りいや。」
「アホ言うんは自分の状態わかってからにしてください。」
「そやで、付いてってもらい。」
戻ってきた部長が念押しするように言えば、謙也さんは不服そうな顔をしながらも黙って頷いた。当たり前のことかもしれないけれど、部長の言うことは黙って従うその流れが不快だった。というよりは、オレに頼ってはくれないことに、というのが正しいかもしれない。オレは後輩だけど、親しくしてくれる先輩のために何かしてやりたいって思うのは生意気ではないだろう。むしろオレにしては大分殊勝なことだというのに。謙也さんは分かってくれない。
 チャリは駐輪場に置いたまま、部長が呼んでいたタクシーに乗り込めば、シートの独特の臭いに車酔いしそうだと思った。謙也さんは早々に窓に頭を預けてずっと目を閉じていて、車体が揺れるたびに苦しそうにしていた。その頭を引き寄せて目元を覆って肩を貸すようにすれば、一瞬びくりとして肩が強張る。何事かと見上げてくる顔を一瞥して、「吐きそうなったら言うてくださいね」と声をかければ、小さくアホと聞こえた。悪態つけるくらいなら大丈夫なんてよく聞くけど、今はよく分からないから、大丈夫だと良いなと思う。謙也さんの家まであと十五分くらい。明日は元気だと良いと、隣の体温にそんなことを願った。

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