chloe







朝を迎えに



※暗いめの話


 もうしばらくの間、二人で逃げ回っている。ソレが三日なのか一週なのか一ヶ月なのか、時間の感覚はすっかりどこかへ置いてきてしまった。オレの中といえば、あらゆる感覚が麻痺を起こしたように鈍感で荒涼とした大地を連想させる。しかしそんな寂しい地平線を、写真や絵画でしか見たことのないことを考えたら、そんな心中さえつまらないフィクションに他ならなかった。感傷に浸ったつもりで心臓にトゲを刺す。
 砂のうえは歩きづらかった。踏みしめても踏みしめても力が抜けていくようで、崩れていく足元の砂山の屑が靴に入り込んで嫌な心地だ。状態は最悪の他に形容できない。
 まだ冷たい春の雨はさらさらと音を立てて地面の色を変えた。海岸添いの堤防に沿って歩く。行く宛ては特になかった。ただ「逃げ続けなければならない」ので、足を止めるわけにはいかない。無心で足を進めた。ぐず、ぐず、と踏みしめる音が絶えず、耳の奥にこびり付いていた。それは海岸沿いを離れ、割れたアスファルトの上でも変わらない。
「光、ちょっと待って」
後方に立ち止まって靴を脱いでいた謙也さんは、脱いだ両の靴ひもを一つにまとめて結び、靴下も脱いでポケットに入れた。
「怪我しますよ」
裸足で歩む彼に言うと、でも痛いと返された。
 靴擦れで皮が剥けて赤々とした患部は砂の粒が張りついていた。血こそ流れていなかったけれど、かさぶたになろうと血小板だか組織液だがでじっとりとする。洗って、絆創膏でも貼れたらいいということはわかる。けれど絆創膏も水もない。あたりには民家一つない林を縫う県道の真ん中では何もできなかった。
 裸足で歩く謙也さんに合わせ、ペースを落とす。小さな石やガラスの粒、腐食した鉄片、いろんなものが散らばっているごく普通の道路。平時では気にも止めない些細なことが存在感を強くしていた。裸足で歩む謙也さんよりも、むしろオレのほうが足下の異物を恐れていたように思う。足の裏というのはかなり鈍感な部位で、そこに厚布とゴムを被せていると何に触れているのかわからないし、指ともなると動かし方さえ曖昧になってくる。
 足が腐り固まり壊死する妄想が頭に住み着くようになった。

 町外れのラブホに泊まったりしていた。大きな通りを外れて、人の波を避けて歩いていると、目に入る建物はなかなかの割合でラブホだった。それは今のオレたちには都合が良くて、世の中うまくできていると妙な感動を得た。シャワーとベッド、他人に干渉されない屋根と金額。休むことができればそれだけで良かった。
「寒ない?」
すでに半分意識を飛ばした謙也さんを抱き締めて眠る。オレンジの光が温かい夜はなかった。どうしたって、オレたちは逃げ続けていたのだから、仕方がないのだろう。夜を死んだように眠る。
 いわゆる駆け落ちだか夜逃げだかで方々を逃げ回り、こんなネオンの下で身を寄せあうオレたちを恋人と形容するのは言葉足らずだ。
「疲れてもうた」
それが始まりの言葉だったのか終わりの言葉だったのか、足を着ける場所を見失った。すると何がどうしてだか海に行くことが決まっていた。ずっと海岸線に近い道を歩いてきたはずだから、海にならすぐに行けるだろう。
 付き合い始めたころに行った海は、晩夏の大阪湾だった。海水とは思えない暗く重たそうな水で、くらげが浮いてくるのも仕方ないと思った。コンクリートで固められた埠頭はさびしいようで、一方で特撮のヒーローが出てきそうな、殺人犯と刑事の応酬がありそうな妙な昂揚を湛えている場所。人気のないさみしい海で二人手をつなぐと特別な気持ちになる。世界を手に入れたような、世界に存在しないような、現実から切り離されたようなふわふわとした気持ち。
 まだ暗い空にさざ波が白く行ったり来たりを繰り返す。ズキズキと足が痛みはじめる。
「ひかるっ」
波を追って駈けていった先で謙也さんが振り返る。寄せて返す波のなかに進みながら、久しぶりに見るくしゃくしゃの笑顔。水を掻く高い音が海岸に響く。
「つめた!」
口を大きく開けて笑う彼のもとへ続こうと踏み出した足は、砂に沈んだ。痛い。力が入らない。
 ここまでだと頭のなかに声がした。ついに足が死んでしまったのだ。
「けんやさんっ」
叫んだ。彼のもとに行けない身体からひねり出して、風の鳴るのに、波が打つのに消えないように。
「いかれへん」
 明けていく空に泣き声がする。

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