本当の気持ち

物心ついた頃には芭蕉さんの弟子として家事や彼の身の回りの事を任されて過ごしていた。

私の隣には芭蕉さん。
芭蕉さんの隣には私。

それが私の世界になり、いつの間に私は芭蕉さんのお嫁さんになることが当たり前だと思うようになった。

「なまえちゃん、ちょっといいかな。」

居間から少し控え目に私を呼ぶ声が響く。今日は元気がないみたい。
さっきいらしていた近所のおば様が何か変な事を吹き込んだのかな?

「はぁい。」

繕いものをそっと片付けて芭蕉さんのいる居間まで急いだ。
芭蕉さんに呼ばれる、というだけで胸が踊る。曽良兄さんや他の兄さん達に呼ばれるより嬉しくて幸せなこと。
今にも浮かんでしてしまいそうな足を地面に押し付けて静かに扉を開いた。
居間には困った顔をした芭蕉さんが座っている。私は芭蕉さんを困らせる失敗でもしてしまったのかと過去の行動を思い出してみたが思い当たる節は無い。
しかも私が部屋に着いたというのに芭蕉さんは私に気付く気配もなく手紙のようなものをずっと眺めている。

「芭蕉さん?」

「ん。ああ、なまえちゃん。急に呼んでごめんね。」

苦々しく笑う芭蕉さん。こんな顔を見るのは初めてだ。
私は机を挟んで芭蕉さんに向き合うように座った。

「どうかしましたか?」

「…うん。あのね、さっきお隣さんが来てたでしょ。」

ああ、やっぱり変な事を吹き込まれたんだ。と心の中で呟くがお隣りさんに迷惑をかけたことは一度も無い。
私は声もなく首を縦に降った。それを確認すると芭蕉さんは言葉を続ける。

「それで…」

本当に申し訳なさそうな、悲しそうなそんな声。そして、芭蕉さんは手に持っていた手紙を机に置いた。

「なまえちゃんも年頃なんだからそろそろ結婚を考えてみたらどうか…って。」

一瞬で頭の中が真っ白になる。
結婚?
誰が誰と?

「でね、お隣りさんがお見合いを進めてくれて。」

芭蕉さんは他にも何か言っていたけど私には何も頭に入ってこなかった。

「勿論、断ってもいいんだよ。」

芭蕉さんの目が私を見ている。優しくて大好きな目。
どんな気持ちでこの話を聞いていたのですか?

「芭蕉さんは…」

声が震えて今にも泣き出してしまいそうになるけど、それをグッと押し殺して私は身を乗り出す。

「ん?」

「どうしたらいいと思いますか。」

ただ一言この話を無かった事にしていいと、お見合いなんてしないでって言ってもらいたい。
しかし、芭蕉さんは困った顔をして笑うだけ。

「芭蕉さん…」

「そうだね、いい話だとは思うよ。」

芭蕉さんは机に置いた手紙を再び手に取り私から目を離した。
それで私は理解する。
私は芭蕉さんにとって娘でしかないんだ、と。

「…馬鹿!」

生まれて初めて好きな人に暴言をはいた。でもそれくらいやりきれなくて。
芭蕉さんは本当に驚いた顔をしていた。そんな事も気にせずに私は部屋を飛び出していった。

「なまえちゃん!」

芭蕉さんの呼ぶ声も振り切って逃げるように走る。
もうこの家にいたくない。芭蕉さんの顔だって見たくない。
庭を抜けても私は走り続けた。

















足の筋肉が悲鳴をあげ、肺が熱くなってきた。私はふらふらと腰を降ろし息が調うのを待った。

「はあ…。」

息が調ってから辺りを見回すと随分と見馴れた風景で。よく見るとここは幼い頃遊び場として使っていた場所だ。
遠くで鐘の鳴る音が聞こえ、私は木の隙間で小さく座りながらその音を聞いた。
太陽がオレンジ色になり、少しずつ地平線に消えて行く。幼い頃芭蕉が自分を迎えに来てくれた時刻になる。

「…。」

静まっていた感情が再び溢れ出し、堪えきれなくなって膝を抱えれば我慢していた涙が一つ、また一つと零れていく。

ガサ…ガサ…

草が擦れる音がして顔をあげた。

「あ…。」

そこには芭蕉さんが立っていたので、慌てて草に隠れるように体を小さくした。しかし、周りにある草は短いものばかりなので芭蕉さんは難無く私をを見つけだしてしまう。

「やっぱり…」

はぁ、とため息と共に吐き出された言葉。その言葉に肩がピクリと跳ねた。

ガサ ガサ

一歩ずつ近寄る気配。嬉しいような悔しいような。逃げ出したいけど私は少しも動けなかった。

「なまえちゃん。」

大好き人の声が耳から脳に伝わり溶けていく。溶けたものがじわじわと涙腺から溢れ服を濡らした。
私はじっと体を固めて芭蕉さんを拒否する準備をする。
それでも芭蕉さんが近づく気配はとまらなくて、なんとなく目の前にいるような気がした。

「ね、なまえちゃん。」

予想通り頭の上が芭蕉さんの声がが降ってきて、私は嫌々と首を横に降る。

「私と家に帰るのが嫌なの?それとも…」

弱々しい芭蕉さんの声。きっと困った顔をしているんだろうな。
それでも今は家に帰りたくない。
芭蕉さんと一緒にいたくない。

「もう…ほっといてください。」

石のように体を固めて芭蕉さんの呼び掛けに拒否をする。

「どうせ私なんて…芭蕉さんは私に早く出ていって欲しいんでしょ!!」

投げ捨てるように言うと、胸の奥がモヤモヤと曇った。芭蕉さんを拒否するたび、暴言をはくたび…自分の気持ちに嘘をついているとき心に霧がかかるようなきがして。
私はその霧を晴らしたくて涙を流す。どんなに泣いても霧は晴れず濃くなっていく。
そんな私の心の霧を追い払ってくれたのは芭蕉さんだった。

「そんなことないよ。私は、なまえちゃんがいてくれないと淋しいよ…。」

か細くて今にも消えてしまいそうな声。顔をあげると芭蕉さんは泣いていて。

「芭蕉さん…?」

「私はなまえちゃんが大切なんだ。」

震える手が私の頬に触れ優しく撫でてくれた。芭蕉さんが私に触れるなんて何年ぶりだろう。

「娘としてじゃないよ。でも君はまだ若いから、私なんかが閉じ込めておけない…。」

悲しそうな芭蕉さん。そんなふうに思ってくれていたなんて。私は芭蕉さんの言葉が心に染みて晴れていく。

「そんな、私は芭蕉さんが好きです!許されるならずっとそばにいたいんです。」

芭蕉さんの手に自分の手を重ねると、驚いた表情をした。

「本当に?」

不安そうに何度も私の頬を撫でて、確認するように私の涙を拭き取る優しい掌。

「本当です。だから、お見合いなんてしたくない。」

我慢できなくなった涙が溢れて芭蕉さんと私の手に流れ落ちていく。

「…ごめんね。」

そういうと芭蕉さんは私の体を優しく抱きしめてくれた。

「ずっと、そばにいさせてください。」

「うん。」

「大好きです。」

「うん。」

私が泣き止むまでずっと抱きしめてくれた芭蕉さん。あまりにも泣きすぎてその後どうやって帰ったのか全然覚えてないけど、ただ芭蕉さんがとても優しかったことだけは覚えている。
次の日芭蕉さんは隣のおばさんにお見合いを断ってくれた。おばさんはとても残念そうにしていたらしいが、私にとってそんなことは関係ない。

「芭蕉さん、どこかへお出かけですか?」

「ああ、なまえちゃん。いい天気だから散歩に行こうと思ってね。一緒に行く?」

「はい!!」

結婚なんかよりも芭蕉さんと一緒にいることが一番の幸せだから。


















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本当の気持ち/芭蕉
fin
2010.02.13

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