ピアノと視線 音楽室からピアノの音が漏れて廊下まで聞こえている。 このピアノの音はなまえだと曽良は確信してノックもせずにその扉を開いた。 「わ、びっくりした!」 なまえの声が上がると同時にピアノの音が止まる。 勢い余って少し乱暴に開いた扉から痛々しい音が響きその音がピアノの音のかわりに廊下に響いた。。 ピアノに集中していたであろうなまえの視線が自分に向いて空中で目線が合う。 「ああ、練習中でしたか。」 視線をずらしわざとらしく冷たく言えばなまえは笑う。その笑顔に誘われるように中に入ると、慣れたようになまえの隣にある誰も座っていない椅子に腰掛けた。 いや、実際慣れてしまったのかもしれない。 音楽室の独特の雰囲気にも、ピアノ用の椅子にも、なまえの奏でるピアノにも。 「ふふふ、今日も明日も練習だよ。」 なまえも慣れたように曽良に言葉を返して。 曽良がいつものように椅子に座るのを確認すると視線をピアノに戻して演奏を始めた。 何度も聞いた曲。 しかし、曽良はこの曲のタイトルを知らない。特に知りたいと感じない。 ただ、なまえが奏でる音が恋しくて、ピアノと向き合う姿が美しくて。一生こうして隣でこの音を聞いていたいと思った。 「……。」 でも現実はそんな生温い感情なんかでは収まらなくて。 ピアノと楽譜を行き来する視線を自分向かせたいと思うし、鍵盤を這う折れてしまいそうな指を自分の指と絡ませたいと願い、あの細い体を自分に引き寄せ壊れるほど抱きしめたい。 「曽良?」 「…はい、なんですか。」 考え事をしていたせいでなまえがピアノを弾き終えたことに気付かなかった。 ゆっくりとなまえを見ると真っすぐ向けられた視線。この目を見ると先程までの強気になまえに向かっていく気持ちが弱くなる。 手に入れたいなら一歩踏み出せばいいのになまえに拒否されるのでは無いかという恐怖に足がすくんで動けないなんて自分らしくない。 「今日はいつもみたいに感想くれないのかなぁ…って。」 「何度も言ってますけど僕は音楽に詳しくないです。」 「ん、でも曽良って俳句やってるからかな?すごく感受性がいいから曽良の感想は凄くためになるんだよ。」 「素人にそんな期待されても困りますよ。」 眩しいくらい期待された視線から逃げるように席を立てば、弱々しい声が返ってくる。 「ご、ごめん。」 背中を向けているのでわからないが、なまえの困った顔が目に浮かぶ。 音の無い音楽室はどんな部屋よりも静寂を感じさせる。この空気に耐え切れないのか再びピアノの音が鳴り響いた。 先程と異なり少し弱い音。ピアノはまるで鏡のようになまえの心を映し出している。 曽良はなまえの背中に周り後ろから声をかけた。 「そのまま、弾き続けてください。」 「…?」 ここからならなまえの視線は届かない。 曽良は静かに深呼吸をした。 「僕はなまえが奏でる音楽なら何でもいいんです。」 「え…」 ピアノの音が止まり、なまえがこちらを見てしまいそうだったので、曽良はなまえの頭を掴みピアノの方へ固定する。 「ほら、弾き続けろと言っているでしょう。」 渋々ピアノと向き合うときっちり続きから弾き始める几帳面ななまえ。曽良は思わず頬が緩んでしまう。 「正直、クラシックにもピアノにもあまり興味はありませんでした。」 「…。」 「でも、なまえが関わっているなら話は別。」 長い曲だと思っていたがこうしてみるとそうでもない。あっという間に中盤まできている。 「この意味、わかりますか?」 ピアノが震え所々音が零れ落ちていく。なまえの動揺が手に取るようにわかった。 この動悸は否定の意味なのか、それとも…。 「僕はなまえが…」 曲はクライマックスに入り最高の盛り上がりだ。 心なしかいつもよりテンポが速く、音に力が入っているようで。 その音に背中を押され曽良はなまえの背中を抱きしめた。 シャンプーの香りが鼻を擽り脳が揺れる。 それと同時にピアノの音が弾けてまるで坂道を転がり落ちるようにフィニッシュを迎えた。 「好きです。」 抱きしめた肩が震え、暫くすると鼻を啜る音がする。 「何泣いているんですか。」 「だって…曽良にそんな事言われるなんて思わなくて。」 「嫌ですか?」 震えそうになるのをごまかすために抱きしめる腕の力を強めて。 すると、その手の上になまえの細くて綺麗な指が重なった。 「ううん、凄く嬉しいの。」 なまえはそういうと曽良と向き合いいつものように真っすぐ視線を送り笑った。 「私も曽良が好きです。」 曽良は初めてなまえの真っすぐな視線を受け止めたような気がする。いつもならその視線に心を弱くされていたが、今は違う。 「では、僕にいつまでもなまえのピアノを聴かせてください。」 「うん!」 眩しい視線ごとなまえを抱きしめる。見慣れた風景が再び新しいものにかわったような、そんな気がした。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ ピアノと視線/曽良 fin 2010.02.04 |