看病 今日、仕事の上司が休んだ。 私が就職してから、休んだことも遅刻もしたこともない、わりかし真面目な人が。 たったそれだけなのに、一日中芭蕉さんのことが気になってしょうがない。 歳はいってるのにまだ独身らしい私の上司。 独り身なら、今頃淋しい思いをしているかもしれない。 なんて考えてしまい、気がつけば芭蕉さんの家の前まで来ていた。 「…。」 しかし、今更になってここに来たことを後悔している。 よく考えたら私なんて、ただの仕事の部下であり、プライベートで仲が良いとかそんな関係でもない。 ただ、曽良先輩に虐められている芭蕉さんを助ける回数が他の人より少し多いくらい…それも会社の中での話だ。 もしかしたら、もしかしたらだけど彼女みたいな長年連れ添った人がいるのかもしれない。 私なんかが来ることは芭蕉さんにとっていい迷惑になるのかもしれない。 そんなことを考えたら、目の前にあるインターホンを押せずにいる自分がいた。 ―えぇい、何うじうじしてるのよ。こうなったらこのお見舞いの品だけ渡して帰ろう。 右手に感じる重み…これは手ぶらで病人に会うことに抵抗を感じた私が、ここに来るまでにスーパーで買った林檎なのだが、体の調子が悪いときはこれだと思い買ってきたものだ。 これだけ渡して帰ろうと決心をしてインターホンを鳴らすと、中からは何も返事がなかった。 「……留守?」 もしかしたら救急車で運ばれたのかもしれない、なんて最悪の事態が頭を埋め尽くす。 私の顔が青ざめるのと同時に、目の前のドアが開いた。 「あ…なまえちゃん、どうしたの?仕事で不都合とかあった?」 ドアに寄り掛かる上司は、フラフラとしていて頬が上気している。 辛うじていつものように私に微笑みかけようとしてくれているが、引き攣った笑いになっていた。 「いえ、お見舞いに来たのですが…ご飯とか食べてます?」 「ううん…でも大丈夫だよ、寝てれば治るから。」 芭蕉さんはへらりと笑顔を見せたが、明らかに大丈夫ではない笑顔に私は芭蕉さんに一歩近づいた。 「そんなんじゃダメです!今から私がお粥作りますから、芭蕉さんは横になってください。」 ああ、私、たかが上司に何をしているんだろう。 だけど、放っておけない何かを目の前の芭蕉さんから感じてしまい、驚く芭蕉を余所に強引に家へとあがらせてもらう。 「台所借りますけど、いいですか?」 芭蕉さんは私の言葉を聞くとフラフラしながら、台所へ案内してくれた。 「お米はここで、あとこれが鍋…」 そういいながら私がこれから作る粥に必要なものの場所を示すと、私の方を見て力無く微笑んだ。 「お言葉に甘えても…いいかな?」 「勿論です!そのために私が来たんですから、芭蕉さんは横になっていてください。」 ありがとう、と軽く会釈をして芭蕉さんは奥の部屋へ消えていく。 よしっ、と腕を捲くると手際よく粥を作る。 あっという間に下準備が終わり、残りはご飯がとろとろになるまで煮込むだけ。 一息ついたところで、ふと我にかえる。 ずかずかと上司の家に上がり込んでしまったこと(一人暮らしの割に大きな家に住んでいる)、年上とは言え恋人でもない男に手料理を振る舞おうとしていること(男友達にもこんなことしたことない)…。 何でこんなことをしているのだろう、と窓の外から見える雲を眺めていたが、ふと私を出迎えてくれた芭蕉さんを思い出し首を横に振る。 ―慈善行為よ、慈善行為。 粥が出来上がる前に、芭蕉さんには水分をとってもらおうと思い、湯飲みに白湯を注いで芭蕉さんが消えた廊下を歩いていく。 スリッパをはいていなかったので、ひたひたと私の歩く音が響き、その音を聞いた芭蕉さんが微かに声を出した。 「なまえちゃん、こっち。」 声のする方へ行くと、芭蕉さんは布団からゆっくりと起き上がろうとしている。 私は慌ててそれを制止した。 「布団に入っていてください。」 「でも…」 「お粥はもうすぐ出来ますから、ね。」 そう言って持ってきた白湯を渡すと、芭蕉さんはありがとうと呟いて白湯を口にする。 「お粥以外に食べたいものがあったら言ってください。」 芭蕉さんが白湯を飲み込む姿を眺めるふりをして、私は芭蕉さんの体を観察した。 熱が高いのかもしれない芭蕉さんの体はほのかに赤く染まり、汗をかいている。 白湯を一気に飲み干して上下する喉仏、横になっていたせいでついた寝癖、和式の寝巻から見える鎖骨。 会社では見られない、普段とは違う芭蕉さんを色っぽく感じている自分がいた。 「なまえちゃん?」 じっと見つめる私を変だと思ったのか、芭蕉さんは首を傾げ私を見つめ返す。 「あ、えと…そろそろお粥出来上がった思うので持ってきます!」 私は逃げ出すように、芭蕉さんのいる部屋を後にした。 芭蕉さんの熱に浮かされた目に見つめられて、全身が熱くなりそうな気がしたから。 この気持ちは弱いものを守る母性のようなものだと思っていたが、どうやら違う。 廊下を速歩きで進みながら、高鳴る胸の鼓動を感じれば、この胸の痛みが母性からくるものではないことは一目瞭然だった。 「…な、んだろ。」 熱い頬を抑え、噴き出しそうになっている鍋のコンロを止める。 「芭蕉さんは私の上司…普段お世話になってるから見舞に来ただけ…」 小さな声で呟きながら自分に言い聞かす。 その間も頭の中には芭蕉さんの姿がちらついた。 私は首を横に振り、緑色の茶碗に粥を注ぐ。どろりと溶けたご飯が芭蕉さんの茶碗に落ちた。 「…………。」 ふっ、と息を吐き出して芭蕉さんのいる部屋へ向かう。 どちらにしてもここまできたら芭蕉さんに粥を出さないことには帰れないのだ。 「失礼します。」 そう言って襖を開くと、布団に横になった芭蕉さんがいた。 少しの間だけでも座っているのは辛いのだろう、と思うと胸が痛む。 この胸の痛みは芭蕉さんを労る気持ちからきてる。 「起きられますか?」 芭蕉さんの枕元に粥を置いて、上半身を起き上がらせようとする芭蕉さんの肩を支えた。 予想以上の体の温かさに胸が鳴る。 芭蕉さんに触れている箇所から全身に伝わる熱、これは芭蕉さんの体温?それとも…。 「なんだかみっともないところをなまえちゃんに見られちゃって…。」 恥ずかしいな、と芭蕉さんは言うと困ったように笑う。 弱々しいその笑顔は正直頼りないのに、何故だか私を引き付ける。 胸の奥から湧き出る感情は、何? 「そんなことありませんよ。辛いときは言ってください、私でよろしければ力になりますから。」 そういいながら笑顔を見せると、芭蕉さんの耳が赤く染まったように見えた。 「うん。」 「あの、お口に合うかわかりませんけど…。」 といっても病人食だから味付けは皆無に等しい。 それでも芭蕉さんが気に入ってくれるか心配だった。 湯気の立つ粥に、芭蕉さんは目を細めた。 「食欲が無いなら一口だけでもかまいませんから。」 芭蕉さんの薄い唇がレンゲをくわえ、体内にその粥を流し込むその姿を私は息を飲んで見守った。 再び上下する喉仏、私まで唾を飲んでしまう。 「ん、美味しい。」 そういいながら芭蕉さんは二口目を掬い上げる。 「あ、無理はしないでくださいね。」 「いや、実は朝から何も食べてなくて…なまえちゃんが来てくれて本当に助かったよ。」 食欲はあるならすぐに元気になるだろう、そう考えたらほっと一安心してしまう。 「それはよかったです。まぁ、でも無理は禁物ですから。」 そう言って釘をさすと、芭蕉さんは肩を落として「はい」と小さく呟いた。 その姿が可愛らしくて笑ってしまう。 「食欲があるなら、林檎剥いておきますね。」 「ありがとう。」 私の言葉に子どものように笑う。 そんな芭蕉さんに微笑みだけ見せて、襖を開けた。慣れたように廊下を歩き、台所へ向かう。 ストッキングをはいた足から伝わる冷たさは、足の裏を冷やしたが体中に纏わり付く熱まで冷ましてはくれない。 それでも、その熱が心地よくて浮足立ってしまいそうだ。 ―芭蕉さん、喜んでくれた…かな。 包丁を手に取り林檎の皮をむく。 ただそれだけの行為なのに、「芭蕉さんのため」だと考えると嬉しかった。 皮をむいて、一口の大きさに切って、塩水にさらしてから皿に盛る。 冷たい方が美味しいから、冷蔵庫へしまう。 冷蔵庫の中はいかにも一人暮らしの男性らしく、コンビニの弁当が置いてある。 それが意外過ぎて笑ってしまった。 ふと、時計に目をやると随分と長居していたことに気付く。 いつまでもここには居てはいけない、と思い芭蕉さんのいる部屋へ向かった。 「ああ、なまえちゃんごちそうさま。」 空になった茶碗を差し出して芭蕉さんは笑う。 ここに来たときのような雰囲気は殆どない、少しは元気になったのだろう。 「はい、あ、の私そろそろ…」 「うん、洗いものは大丈夫だよ。」 私の言わんことがわかったのか、芭蕉さんは諭すように言う。 私は芭蕉さんの横に座ると、丁寧に頭を下げた。 「今日は連絡も無しに押しかけてすみませんでした。」 「ううん、今日はなまえちゃんが来てくれて本当に嬉しかったよ、ありがとう。」 芭蕉さんはそういうと私の肩に手を置いた。 優しいその表情に、胸の奥がギュッと締め付けられるような気がする。 「…はい。では、失礼します。」 見送りはなくていいです、と伝え芭蕉さんに背を向けた。 「また明日ね。」 振り向くと芭蕉さんが小さく手を振っている。 可愛らしい姿に頬が緩んだ。 「また、明日…!」 私は軽く会釈をすると浮いてしまいそうになる足を地に押し付けながら歩いた。 恋愛感情にも似たこの思いは、今だけなのか、それともこれからも続くのかわからないけど、明日からまた会社で芭蕉さんに会えるという事実が私の心を踊らせた。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 看病/芭蕉 fin 2011.02.02 |