恋に落ちる瞬間

芭蕉さんと私は師弟関係だ。
でも、よく親子と間違えられてしまう。
芭蕉さんが年老いて見えるのか、私が幼いのか、結局のところよくわからない。
しかも、私たちは師弟関係なのにじゃれて遊んでることだってある。
芭蕉さんが私に付き合って遊んでくれているのか、私が芭蕉さんに付き合って遊んであげてるのかわからないくらい。
今だってそう。
私たちはじゃんけんをしている。(敗者は勝者に頬を抓られてしまうから負けられない。)

「なまえひゃん、いひゃい、いひゃい!」

芭蕉さんは2連続して負けたから、両頬を私に抓られている。
もしも私にもう一本腕があったらもう一勝負できるのに。

「参った!って言ったら離してあげますよ。」

うふふ、と誇らしげに笑って見せると芭蕉さんは一瞬眉を潜めた。
負けず嫌いの芭蕉さんのことだから「参った」なんて言うはずないんだけど、でも芭蕉さんの口から聞きたくて少しだけ抓る指先に力を込める。

「いひゃひゃひゃひゃ…」

あまり長いこと抓っていると、芭蕉さんの頬が伸びきってしまうのではないか不安になってしまう。
よくみると芭蕉さんは涙目になっているではないか。

「んもう、芭蕉さんは負けず嫌いなんですから!」

私はそういうとパッと芭蕉さんの頬を解放してあげる。
芭蕉さんは私に抓られて真っ赤になった頬を労るように包み込む。
その姿が妙に可愛らしくて笑ってしまう。

「だって、参ったなんて…格好悪いじゃない。」

「ふふっ、涙目になってる時点で格好悪いですよ。」

「えー?」

そうかなぁ、と頭をかく芭蕉さん。
私は楽しくなって、芭蕉さんにもう一勝負申し込む。
しかし、そのときに調子にのって立て膝で歩いたら着物の裾を踏んでいたらしく、私の体は着物に引っ張られて上手く動くことが出来なかった。
それだけだったらよかったのに、私の体は均衡感覚を失い芭蕉さんの方へ倒れていく。
芭蕉さんの細い体じゃ、私なんて支えられないに決まってる。
私は瞬時にそう考えて、芭蕉さんと共に畳に倒れてしまうことを覚悟して目を固く閉じた。

「っ…!」

しかし、いくら待っても体が横になることはない。
それどころか温かい腕らしきものに包み込まれている。

「危ないなぁ。」

頭上から困ったような呆れたような声が降ってきて、私は恐る恐る目を開ける。
目の前には芭蕉さんの着物があって、上を向くと芭蕉さんと目が合った。

「あ…びっくり、した。」

パチパチと瞬きを繰り返すと、芭蕉さんは困ったように笑う。
目を開けたことによって、芭蕉さんとの距離の近さを実感してしまった。
いつもより濃い芭蕉さんの匂い、予想以上にしっかりした体、私よりも少し低い体温…。
そんなものが私の身体を熱くする。特に顔なんかは火が着いたんじゃないかと思うくらいに熱い。

「びっくりしたのは私の方だよ。」

芭蕉さんはそう言うと、私の背中を優しく叩いた。
たぶん私を安心させようとしてくれてるんだと思う。
でも背中から伝わる振動が、よりいっそう心臓の鼓動を早くしていくような錯覚に陥った。

「どこかぶつけたところはない?」
心配そうに私の顔を覗き込む芭蕉さんの目を真っ直ぐ見ることが出来ない。

「あ、はい…だいじょぶです。」

「そ?よかった。」

ゆっくりと離れていく体。
淋しいような、安心するようなそんな感覚。
何だ、これ。

「芭蕉…さん。」

「なまえちゃん驚きすぎだよ、顔真っ赤になってる。」

芭蕉さんはそういうとクスクス笑う。
私も釣られて笑って見せたけど、自分の胸の高なりを抑えるのに必死だった。

「じゃ、今日はこれでおしまい。そろそろ夕餉の支度しようか。」

芭蕉さんの言葉に無言で頷く。頭がごちゃごちゃしてうまく言葉がでないせいだ。

「なまえちゃんはお洗濯ものやっちゃってね。」

そう言い残して芭蕉さんは台所へと消えていく。
芭蕉さんがいなくなっても私の身体の熱さと胸の高なりが治まることはなかった。



















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恋に落ちる瞬間/芭蕉
fin
2011.01.17

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