甘辛い片思い 賑やかな店内、ここはいつ来ても人で溢れている。芭蕉はその人込みを掻き分けるように店へ足を踏み入れた。団子の甘い香りが鼻を霞め空腹だった腹がグルグルと活動を始めている。 「あら、芭蕉さん…いらっしゃい!」 突然声をかけられて肩がわざとらしく動いてしまう。何度この声を聞いても慣れてくれないのは、この感情がばれるのが嫌だからなのか、それとも場違いな感情に対する罪悪感からなのか芭蕉には理解できなかった。 笑顔、笑顔…と己に言い聞かせながら芭蕉はゆっくりと声の主へ顔を向ける。 「こんにちはなまえちゃん」 「こんにちは!芭蕉さん。ごめんなさいね、今店内はお客さんでいっぱいなの、いつもみたいに奥でもいいかしら?」 他のお客さんへ持って行く注文の品を片手になまえはいつもと同じ笑顔を芭蕉に向けた。 「うん、じゃあ奥に行くね」 慣れたように足を進め座敷に腰を下ろす。ここはお偉いさん常連しか入ることが出来ない個室。 わざと襖を少しだけ開けてなまえの働く姿を眺めた。 団子屋の看板娘であるなまえは男女に関係なく人気がある。そのお陰でこの店はいつでも大盛況。 勿論、芭蕉も団子よりなまえに会うために通っているわけだが。 眩しい笑顔を絶やさず一人一人に接するなまえに胸の高鳴りと、もやもやとした嫉妬を感じる。 ―私の一方的な感情なのに…。 諦めにも似たため息をつくと、芭蕉は襖に背を向けた。それでも無意識に追ってしまうなまえの声。 芭蕉は振り払うように俯き皺のよる己の手の甲を眺めた。 「お待たせしました」 パッと花が咲いたような声がすると同時に温かいお茶が差し出された。つやつやの手にある茶飲みからは絶え間無く湯気が出ている。 顔を上げるとそこにはニコニコと笑うなまえがいて。 「あ、ああ!ありがとう」 「はい!注文は決まりました?」 「えと、じゃあいつものでいいかな?」 慣れたように告げるとなまえの笑みが深くなった。 「勿論。みたらしだんご…蜜多め、ですよね!」 「うん」 まるで阿吽の呼吸のように理解するなまえの行動から、自分が数え切れないほどこの団子屋に通っていることを改めて感じ、なまえに理解される喜びと申し訳なさを噛み締めた。 「すぐ、持ってきますね!」 最後まで笑顔を絶やさないなまえの姿が厨房へ消えるまで芭蕉は最後まで見送る。少しでも早く注文の品を用意しようと急ぎ足になる癖すら覚えてしまった。 年齢もそうだが身分まで異なる娘に心を奪われている俳聖。こんな姿を弟子達が見たら何と言うだろうか。 ―間違いなく曽良君は嘲笑うな…。 冷たい目をした弟子を思いだし芭蕉の背中がブルリと震えた。 「あら、お風邪ですか?」 コトンといつものように蜜が多くかかった団子が差し出され、目の前には不安そうな瞳をしたなまえがいた。 「え?ううん!何だか急に寒気がしただけだよ」 心配する必要はないと表現するように笑顔を見せるが、なまえの瞳から不安の色は抜けない。 「風邪の引き始めかもしれませんね…ちょっと待っててください」 そう言うとなまえは再び厨房へと姿を消した。 次に姿を見せたなまえの手元には湯飲みがあり、その湯飲みを芭蕉の前に置いた。 「えっ、これ」 「生姜湯です、風邪の引き始めはこれが一番なんですよ」 うふふ、と笑うなまえに芭蕉は戸惑っているとなまえは小さな声で言葉を繋ぐ。 「勿論お代はいただきません、私の奢りです。みんなには内緒ですよ?」 内緒ですよ?なんて殺し文句だ、という言葉を芭蕉は飲み込んだ。 「ささ、どうぞ」 「ありがとう」 差し出された生姜湯をゆっくりと飲み干すと温かなものがじんわり体を包みこむ。 なまえに一連の動作をじっと見つめられ芭蕉は戸惑ったが、笑顔で「美味しい」と呟くとなまえは嬉しそうに笑った。 「よかった」 「ありがとう」 「いいえ、ではごゆっくりどうぞ」 なまえはそう言うと静かに出て行った。 「………。」 目の前にはまだ手を付けていない団子と湯飲みが二つ。先程まで賑やかだった部屋はシンと静まった。 耳を澄ますと襖の向こうからなまえの声が響いている。 「…いただきます」 目の前の団子を食べると先ほど飲んだ生姜湯が口に残っていたのか、いつもより少し辛いような気がした。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 梅干さんリクエスト 甘辛い片思い/芭蕉 fin 2010.10.28 |