*思い出にならない記憶 一人の夜はもう慣れたはずだった。 しかし、シンと静まった空気となかなか温まらない部屋の温度。 そして、「おかえりなさい」というなまえの嬉しそうな声がない、という真実が胸を刺す。 無意識に玄関に立ち尽くしなまえの迎えを待っている自分がいて鬼男は自虐的に笑った。 それを振り払うように食事も風呂も無視をして寝室へ向かう。 翌日の事は忘れ床にスーツを脱ぎ捨ててあるけば、頭の片隅にしまい込んでいたはずのなまえの怒る声が聞こえてきそうで、鬼男は頭を振った。 ―なまえを思い出すときは疲れているときだ。 自分にそう言い聞かせ一人では広すぎるダブルベッドに入り込むと柔らかな布団が自分を包み込んだ。 予想通り疲れていたのだろう、先程までは痛いほどぱっちりと開いていた瞼もゆっくりと降りてきて徐々に広くて淋しい世界を闇へと変えた。 「あー、もうスーツ脱ぎ捨てて…お風呂は入ったの?」 ―そういえば、なまえは僕が脱ぎ捨てたスーツを文句言いながらもちゃんと片付けてくれてたっけ…。 「鬼男、ほら起きて…ご飯食べなきゃ駄目だよ」 ―ああ、この匂いはなまえがよく作ってくれたホットケーキ、僕が甘いもの好きじゃないって言っても作ってたっけ…。 「ねぇ、鬼男。明日はお休みなんでしょ?私もなんだ。久しぶりに二人でお休みだねぇ」 「なまえっ!!」 勢いよく跳び起きて、声の主を探すがそこには先程とかわらない風景が広がっている。 唯一かわったことはカーテンの隙間から朝日が漏れている、ということ位か。 鬼男は無意識に伸ばしてしまった腕を暫く見つめ、その手で自分の顔を遮った。 「なまえ…」 自分の仕事となまえの仕事のタイミングが合わなくて、すれ違ってばかりいた半年前。お互いに疲れきっていて、思いやる事すら出来ず傷つけることしか出来なかった。 それなのに今更逢いたいなんて言ったらなまえは笑うだろうか? 暗闇の中浮かぶのはなまえの笑う姿ばかり。 溢れてくる涙を拭き取りベッドから抜け出してスーツのポケットに眠る携帯を開いた。 電話帳を開いて真っ先に液晶に写るのはなまえの名前。 それを見て煩いくらい動く心臓。 鬼男は意を決してボタンを押した。耳元でコール音が鳴り響く。 ―1回、2回、3回… コール音を無意識に数えていると、突如その音が消えた。 『もしもし』 コール音の代わりに聞こえてきたのは懐かしいなまえの声。 この声を聞くだけで視界が歪みそうになる。鬼男は不覚にも声が詰まってしまった。 『………鬼男?』 震える声だって構わない、なまえに今の気持ちを伝えるんだと己を奮い立たせて言葉を紡ぐ。 「…あ、あのっ、なまえ!」 なまえに自分の気持ちが伝わるように、まだなまえの中の自分が思い出になっていないようにと神に祈りながら。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ ぽこさんリクエスト 思い出にならない記憶/鬼男 fin 2010.10.10 |