不安を愛に変え 「芭蕉さーん」 芭蕉庵になまえの弱々しい声が響き渡る。 その声が聞こえた数秒後ぱたぱたと廊下を走る音が響き、なまえの目の前に芭蕉が現れた。 「ああ、目が覚めたんだね。なまえちゃん。大丈夫?まだ吐きそう?」 芭蕉はそう言うと不安げな表情でなまえを見つめた。 今なまえは床に付している。 といってもただの季節風邪。 医者にもかかったので心配するほどではないのだが、過保護な芭蕉は心配そうになまえの隣に腰掛けた。 「大丈夫です。でも、芭蕉さんがいなくて…淋しかったの。」 まだ熱が高いのだろう。 呼吸が荒く頬が赤く染まるなまえは苦しそうだが、不安げな瞳には涙で潤みどこか艶がある。 芭蕉は普段とは異なる様子のなまえに見つめられてドキリと胸が高鳴った。 「そ、そっか。風邪引いてるときは心細いからね。」 よからぬ想像を振り払うように笑顔を浮かべ、なまえの頭を撫でながら汗で額にへばり付く前髪をはらってやると彼女は安心したように笑う。 「芭蕉さん…。」 なまえは布団から弱々しく腕を伸ばし自分の頭を撫でている芭蕉の手に重ねた。 「どっ、どうしたの?」 緊張をしすぎたのだろう。芭蕉の声は裏返り、そわそわと体を揺らし始めた。 そんな様子を気にせずになまえはか細い声で続ける。 「ずっと傍にいて下さい」 「へ…?」 今にも泣き出しそうな震える声をしぼりだすなまえ。 その言い方はまるで別れを前にした人のようで。 「私のこと、捨てないでください…」 重ねた手を弱々しく握りしめ、なまえはついに涙を流した。 「なまえちゃん!?」 驚く芭蕉を余所になまえは抑え切れなくなった鳴咽を漏らす。 「うぅ…ふぇっ、うぅーっ」 「な…っ!?えぇっ?」 「私…私……芭蕉さんと一緒じゃなきゃ、やっ…やだぁ。」 恐らく熱が高くなりすぎてものをまともに考えられないのだろう。 なまえは泣き付かれて眠ってしまうまで芭蕉を求め続けた。 「なまえちゃん」 夕暮れの涼しい風がなまえの頬を撫で、その心地良さがなまえを眠りから呼び覚ます。 「……………。」 誰かに呼ばれたような、そんな気がして重たい瞼を開いた。 ぼんやりと歪んだ視界の先には見慣れた天井が広がり、その隅に薄い色素の髪が揺れる。 「……ばしょ…さん。」 喉が渇いて声がうまく出せなかったが、芭蕉はなまえの声に気付くと読んでいた本を閉じ優しく微笑んだ。 「目が覚めた?喉が渇いたでしょ。」 芭蕉の呼び掛けにゆっくりと頷くと、布団から出ていた掌に温かい何かが触れる。 「水を持って来るから、手を少しだけ離してくれる?」 芭蕉の少し困ったような視線の先を見るとそこには自分の手があり、その手を芭蕉が優しく撫でている。 このとき、自分が芭蕉の裾を掴んでいることに初めて気付き、なまえは慌ててその手を離した。 「ご…ごめんな、さい」 芭蕉は何も言わずなまえの頭をひと撫ですると台所へと歩いていった。 「…。」 一人になると急に心細くなり意味もなく涙腺が緩んでいく。 カチャカチャと台所から芭蕉が作業をする音が聞こえているのにもかかわらずだ。 「………ばしょーさん。」 渇いた喉では大きな声は出ず口先で音が止まってしまう。 「……。」 まるで何も無かったかのように静まり返る空気に緩んだ涙腺から涙が零れ落ちた。 「どうしたの?」 ああ、また泣いて。と芭蕉の声が響き渡る。 芭蕉はなまえの隣に腰掛けると額を冷やすために持ってきた布でそっと涙の跡を拭く。 熱が下がったのだろう、眠る前とは違い顔色がいい。 安心した芭蕉はなまえに水を飲ませるためなまえの体をゆっくりと引き起こした。 「ありがとうございます。」 差し出された湯飲みを受け取り、ゆっくりと喉を潤していく。 それだけなのに幾分か体が楽になるような気がした。 「ありがとうございました。」 中身の無くなった湯飲みを芭蕉に渡し、再び横になろうとすると芭蕉に遮られた。 「芭蕉、さん?」 芭蕉は無言でなまえの腕を引き、優しく胸に抱き寄せた。 「…!」 「大丈夫だよ。私はずっとなまえちゃんと一緒にいるから。」 背中をゆっくりとあやすように撫でる芭蕉になまえはドギマギと体を固くする。 「え?」 「大丈夫。」 胸に抱き寄せたなまえに視線を送ると、そこには再び真っ赤に染まったなまえがいて。 「…は、い。」 熱に浮かされていたときに口走っていた事は覚えていないのだろう。なまえはただ恥ずかしそうに俯いた。 それでも芭蕉は続ける。 「私は何があってもなまえちゃんを捨てたりしないよ。」 「…うん。」 引き寄せた胸に先ほどより重みが加わる。なまえが甘えて擦り寄ってきた証拠だ。 その重みが愛おしくて腕に力を入れて強く抱きしめればお互いの鼓動が近くなった。 「なまえちゃん。」 「はい。」 名残惜しいが病気のなまえに無理はさせられない。 ゆっくりと体を離し再び布団に横たえる。 「もうちょっとおやすみ。」 「…ん。」 何度も頭を撫でてやると心地良さそうに頬を緩めるなまえ、次第に眠りに落ちていった。 「なまえちゃん」 呼び掛けても反応はない。 なまえから手を離しても気付かないほどだ。 眠るなまえの表情は安らかで。 その表情に惹かれ、ついさっき離れたばかりなのに再び手を伸ばしその髪に触れてしまう。 「……ん。」 起こしてしまわぬよう静かに立ち上がり残りの家事を済ませるため部屋を後にする。 「おやすみ」 襖を閉める前に幸せそうに眠るなまえにそう囁けば、なまえはよりいっそう幸せそうに微笑んだような気がした。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ はるとさんリクエスト 不安を愛に変え/芭蕉 fin 2010.08.21 |