いつもよりほんの少し離れた場所に腰を下ろしたのは別に一さんが近づくなと不穏な雰囲気を漂わせていたわけではない、何となくだ。

普段なら一さんの隣に腰を下ろし、寄り添える距離を保つのだけど、話があるとこちらを向かれたら正面に座るしかない。

徐に、恐る恐る脚を折れば耳に届くのはわたしが発する衣擦れの音。

その些細な音ですら煩く感じるほど静かな部屋の中では生唾も飲み込めないと、背筋を正すと同時に吸い込んだ息をゆっくりと鼻から吐き出した。

こうして向き合えば暗がりでも一さんの表情くらいは伺える、だけどそれも顔を上げればの話だ。

自然に落としてしまった視線というのはどうにも上げ辛く、また、こんな空気を作り上げてしまったのはわたしの態度の所為だと解っているからお話とは何ですかと切り出せもしない。

待っているのは沈黙で、普段そうならないようにと口を動かしていたわたしにとってこんな雰囲気は、とてもじゃないけれど耐え難く重ね合わせた指先に力が入る。

自らの手をきゅっと握り合えば、静かな部屋の中に着物を爪で掻いた音が鳴る。

そんなわたしの様子を見兼ねたのか、ほんの少しだけ重苦しい溜息を吐き出して一さんが声を上げた。



「…不快な思いをさせたのだろう?」

「…………」

「先程から考えていた…だが……心当たりが多過ぎてお前の心が解らん」

「……」



吐き出される言葉に少し、また少しと、落とした視線を上げればかち合う眼と眼。

一さんとは幾度となく真剣な話をしたことがある、その度に誠意を見せるかのようにしっかりとわたしの眼を見て、後に不満や戸惑いを残すようなことをしない人だった。

それはどうやら今回も同じらしい、しっかりと交じり合った視線は腕に手繰られるわけでもなく、逸らすなと言われたわけでもない、だけど自然に離せないと目が見開く。



「こんな夜更けに、お前にとっては見知らぬ男を連れ…お前が戸惑っているだろう事は解っていた。何の説明もせずに上がり込んでしまった事は俺の落ち度だ」



言いながら、一さんは少し考え馳せるように視線を落とした。

けれど再び強い眼差しと共にお顔を上げ、今度は気持ち少しわたしを覗き込むよう小首を傾けるとはっきりと、然程大きくはない声ですまんと一言呟く。

確かにこんな夜更けに来ることは、世間一般の常識には当てはまらないだろう。

でもわたしは一さんが此処を訪れてくれたことを迷惑だとは思っていないし、迷惑などという思いは幾らも抱いていなかった。

だからついだ、そんなことは構わないのですと言葉を吐き出したのは。

謝ってなど欲しくなかった、もし仮にこれから先、こんな風に夜更けに脚を運べる状況が出来たにも関わらず、誤解をさせてその好機の全てを失くしてしまうのは何よりも耐え難い。

そんなことでわたしは態度を悪くしていたのではないと、そう伝えたいがために出た言葉だった。

だけど一さんは、そんなわたしの言葉に何か確信めいたものを感じ取ったのか、一度小さく溜息を吐き出すと口唇を一文字に噤んで、



「解った、ならば、島原へ出向いたこと、か…」

「……………」



ふい、とお顔を逸らしながら呟いた言葉はわたしへ向けてというよりもまるで、自分を戒めるような低い声色をしていた。

見遣れば眉間には数本の皺、次の言葉はまだ無いと言わんばかりに堅く閉ざされた口唇、細まる眼。

別の意図を持っていたはずの言葉ひとつで悟らせてしまったと気付くと同時、わたしは居た堪れなくなり瞼をきつく閉じ顔を伏せた。

どうしよう、こんなくだらないこと、一さんにお伝えするつもりなど、なかったのに。

確かにわたしは一さんを招き入れる際、少し生意気なことを口にした。

酷く驚いてらっしゃったのが、わたしがそんなことを口走ると思わなかった所為か、一さんにとって心外な言葉だった所為かは解らない。

わたしのあの言葉の所為なのだとしたら、それこそわたしの落ち度だ。

ほんの少しの厭味のつもりだった、わたしは恐ろしい思いをしていたと言うのにという何とも自分本位な厭味のつもり。

ぷいと顔を背け、暫く拗ねているふりをして、でも本気で悩ませるつもりなどはあの言葉を口にしたときにはなかったはずだ。

それがふりではなく本気になってしまったのは、一さんの着物から梅の香が漂ったからだろう、きっかけはそんな些細なことだった。

理性で抑え込んでいた感情が剥き出しになり態度へと変わり、それを抑え込む術を知らないわたしは一さんに今こんなお顔をさせている。

今更違うと言ったところで恐らくもう遅い、ならば言い訳のひとつくらいして見せるべきだ。

だけどその言い訳が思いつけるほど、今のわたしは冷静でも何でもなかった。

ううん、何てお返事すればいいのだろうと思考を巡らせ懸命に考えている。

でもどれもこれも、当たり前にくだらぬ醜い嫉妬の末に出た答えでしかなく、俯いた顔も上げられないし噤んだ口唇も開けない。

訪れた沈黙は酷く重い、一さんの言葉に肯定も否定もせず、ただ俯くしか出来ない自分が憎らしいとすら思えた。

だけど返せる言葉がどこにも見つからないと、わたしは薄く開けた瞼の隙間から畳の目を沿うように視線を走らせ、それからきゅっと口唇の端を噛んだ。

そんなわたしの様子を見兼ねてか、一さんの気持ちが纏まったのかわたしには知る由もないけれど、口を開いたのは一さんで、



「…命があったのだ、ここ暫く詰め込んでいたのでな…偶には付き添うようにと」

「………先程、お聞きしました」

「……それだけのことだ、それ以上のことはない、ましてや……」



解っていた、そのお話はもう充分解っていた。

だから悪いのはわたしなのだとその続きを遮ろうと顔を上げて、だけど、



「金銭の有無に関係なく、俺は女なら誰でもなどと思ってはおらん」



再び、先程と同じように、ううん、それ以上に真剣な、とても力強い眼で見据えられ、わたしは奥歯を噛み締めた。



「………ユメ……お前以外は…」



心音が高鳴ると同時に眉が顰んだのは、なんてことを言わせてしまっているのだろうと視界が揺らいだからだ。

わたしはこんなにも想われているというのに、一さんのことを解ったようなふりをして気になさらなくてもいいことを病ませて、そうしてこんな言葉を吐かせて嬉しいのだろうか。

一さんがこうして気持ちを口にしてくれることは滅多としてない、だから正直に心音は高鳴る。

だけどそれ以上に罪悪感が広まって、わたしは軽口を吐いたことを激しく後悔した。



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